ぼんごさんと中学校:将来の夢

ぼんごさんと中学校

進路指導があって、どの学校に行きたいのかと聞かれた。

どんな学校に行って何をしたい?
将来の夢はある?

そんなようなことを聞かれて、ぼんごは戸惑ってしまった。

School

自分の将来を考えてみるも、行きたい学校、夢や希望、なりたい自分、やってみたいこと、行ってみたいところ・・・すべて、なかった。

これまで、将来の自分を考えたこともなかった。

腎炎の制限を受ける暮らしの中では、その日その日を生き抜くのが人生の目的といってよかったから、自分の今日がいつまでも続くもので、数年後にはこうなっていて、将来的にはあんな風になっているだろう、みたいな将来の像を考えたことがなかった。

自分の身体はそんな風に長くもたないと思っていたのだ。
そのうちベッドのまま運ばれてゆくあの日がやってくると、いつも考えていた。
だからその日が今日やってこないように、制限やに忠実に、やれることだけやって生きてきたこれまでの人生だった。

幸いなことにそれは功を奏して、今度は自分の将来を見据えないといけないということになっている。

ところが、ぼんごにとって中学校生活を通じてようやく乗っかれた普通のレールの端っこでは、普通のなんと難しいことを思い知っていたから、この普通のレールを自分が乗りこなせるのかわからず、またそんな自信がまったくなく、将来を考えられる環境に身を置けたことは腎炎が落ち着いていて嬉しい出来事であるはずなのに、どうにも漠然とした無理難題を新たに与えられたようでもあり、それはそれで気が滅入ることだった。

ぼんごにとって学校はいつしか、つまらない場所になってしまっていた。

寛解を迎えて人並みの普通を過ごせることに期待して、普通を頑張って過ごした時期もあったけど、結局自分には人並みに自信をもってできることがなく、制限や壁がなくなるわけでもなく、自分の身の回りの環境が劇的に変化することは無くて、きらきらした学生生活へのあこがれはどこか遠い所で色を失っており、それどころか何をやっていても劣等感が付いて回った。

没頭できることがなく、何に対しても集中力を欠く状態になっていて、思い描いていた元気な自分はこうではなかったと悲観的になり、結局、どうして自分はこうなんだろう、なんで自分の身体はこうなってしまったのだろうと答えの出ない悩みを中心に、誰にも相談できず、現実の自分は悩みのほうを向いてぐるぐる回り続けてどこへも行けない衛星のような精神状態になっていた。

学校は、そういうことに対処するための力になってくれる場所ではなかった。
ただ勉強だけを教えてくれる場所で、ぼんごの生き方を導いてくれることは特に教えてくれず、ひたすら宿題や課題を面倒に思うようになってしまっていた。

また、ほとんどの教師は学校生活に懐疑的な子どもに懐疑的なので、ぼんごにとって学校は安心できる場所ではなく、いつも一方的に価値観を与えられることが多かったから、気持ちの面で自由がない気がして、早く大人になりたいと思っていたらしい。

Freedom

病気があろうがなかろうが、学校を面白い場所だと思わなかっただろうな、みたいな回想もしている。
それは僕も同感。学校に何を期待してるのよと言われたらそれまでだけど、学校は生き方を教えてくれる場所じゃない。行ってつらいことが多いなら行かなくていい。その時間を自分が没頭できる何かに使ったほうがいいと思う。

何のために生きるのか、を考える状況になってしまった以上、それに対処することそれ自体が人生の目的のようなもので、将来の希望は自分がただ健康な身体で生きていたいということ以外に無く、進路指導室で聞かれていることはきっとそういうことじゃないんだろな、と考える頭はあったから、ぼんごは、だいたい曖昧な返事を繰り返すばかりだった。

学校では出来ないと感じることが多いし、家では自分の意志で何かすると怒られることが多かったし、自分には普通を生きていくうえで何の才能もないやと、自分に失望する気持ちが強くなっていた。

それでまた、なんで自分はこうなんだ、どうして自分の身体は弱いんだ、みたいな衛星の状態になって人知れず悩みを持ち続け、心のうちに重苦しいものを思い描いて、部屋に戻るとそれを殴ってくれる荒っぽい音楽を聞いた。

本人はいまだに自分には何の才能もない、と言って十代の魂の臭いをぷんぷんに振りまいているのだが、ぼくはある意味、ほぼ毎日のように悩みながらもどこかでそれに折り合いを付けて生きてきているこの人の性格はひとつの才能だと思っている。

ぴーぴー言っていることも多いのだけど、数限りない悩みを乗り越えてきてもいて、悩みに費やした時間は幼少期からとんでもない長時間に上っているのだろう。しかも、自分自身でそこに答えを見出さないとだめで、誰かの考えを容れるようなことは少なく、自分自身の感性をとても大切にしており、曰く「自分を責めていいのは自分だけ」というのが、数少ないぼんごの心の中の誇りのようになっていて、自分の行く末を誰かに委ねない、気持ちの面での自由だけは、絶対に曲げることがない信念のようになって立派に強く存在している。

なにかの行動の理「由」が「自」分である、自分自身が自分の行動の理由を持っている、気持ちの面での自由さを本当に大切にしているのだ。

そして、そうやって悩ましい時間が多かったから、悩みを抱える他者にやさしいのだ。
そういうぼんごの性格は大変な思いもするが、僕は、ちょっとしたことでくよくよしてしまう悩みの素人の僕は、この性格をとても格好いいと思っていて、この人は悩むことのプロだ、とすら思う。

ぼんごの心の状態に異変を感じていたのはお父さん。
ぼんごは身体が弱いから手に職を付けろとアドバイスをした。手に職をつけるために、いろいろと資格を取るのに有利な理系に進むのがいいんじゃないか、と現実に即したアドバイスをしてくれた。

お父さんはこの世で一番やさしいパパだったから、ぼんごは素直にそうすることにした。

妹と二人部屋の一室、ぼんごはしょうがない、やるか、とイヤホンを外した。

外した端末からはガーガーとかズドドドドドとかボコスカボコスカとか、ギャイーンとかボエーみたいな、綺麗とは言えない音が漏れ聞こえていた。

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