ぼんごさんと高校:受験生

ぼんごさんと高校

腎炎が寛解となってから、なんでも好きな事をしていいと言われていた。親からも医者からもそう言われた。

しかし、何でもやっていいと言われても、できそうなイメージを持てることが何ひとつ無いのが現実だった。何をやるにも体力がいる。

いくつか試してみたことも、自分の中で自信を持って出来たと思えることは一つもなかった。自分に自信を持つことができる何かに、出会うことがなかった。自分が憧れる何かに近づきたいが、自分にはそもそもそういう資格すら無いみたいだと、余計に自信を失ってしまうことが少なくなかった。

そんな中、勉強は体力を使わないのでそれなりにやれた。特に勉強が好きだったわけでもないが、自分の中でそこまで無理しなくても出来ることで、かつ成績がいいと、親や友達や周囲の人が褒めて自分を認めてくれるので、勉強に対してはそれなりに打てば響く感を持てていた。勉強して成績を保つということは、高校生活の最初の頃まではぼんごのアイデンティティの大事な部分を担うことでもあったのだ。普通の世界の一員になれていると実感できる要因のひとつだったわけだ。

だが、パニック発作が頻繁に起こるようになってからは勉強にも手がつかなくなってしまった。成績は落ちた。

高校生活も終わりが近づいていた。

目の前に差し迫る今だけを倒して生きてきたぼんごにとって、将来の夢とか、やりたいこと、就いてみたい職、なりたい自分、行きたい学校、入りたい会社、進路の具体的な希望、のようなものは存在していなかった。

成績が落ちるほどに褒められることも減り、自分が普通の学生の範疇から離れた軌道に乗りつつあることも自覚していた。その軌道の先にはもれなく落ちこぼれとかドロップアウトと呼ばれる事態が待ち構えていることもまた、ぼんごは自覚していた。

進路指導では、お前は好きなところを受験しろ、と言われた。学校的には不真面目な奴だし、どうせどこを受けても受からないから好きにしたらいいという奔放な指導だったらしい。

将来が何も見えない。
将来のことにもしかしたら繋がるかも知れない学業ですら頼りなくなってしまった。やっと自分の足元を照らしているヘッドライトの光すら、薄暗くなって消えてしまいそうな気がしていた。

しかしそれでも、自らライトを消すことはできず、それが焼け石に水だと何となくは知りつつも、ぼんごは受験勉強に励んだ。

受験勉強をするのが良くいる高校生で、自分もその行動をとっている限りは高校生の末端にしがみついて普通でいられると思い込み、自分も受験生になったつもりになることでかろうじて自分を保っていた。

予備校にも行った。
でも授業が息苦しいのは学校と同じで、見えない敵がそこにもいるのを感じた。
で数学のテストは3点しか取れず、一年分の高い授業料を親に払ってもらったのに、1/3くらい通ったところで自分で手続きをして、結局やめてしまった。

幸いなことに腎臓のほうは落ち着いていた。寛解を保ち、3ヶ月に一度病院に行けば良いくらいには静かだった。

ぼんご自身の努力や工夫しだいでは、モラトリアムを選択することが可能なくらいには、身体は協力的だった。

夢も希望も特にないが、勉強することで普通に繋がっていられるなら、自分はもっとそうして過ごしていたいと願う日々を発作とともに過ごして、そんでそのうち3年生の冬がやってきた。

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