2023年も生きた(文:ぼんご)

最近のぼんごさん

2023年夏。友人ががんで亡くなった。44歳。
一番辛くて一番視野が狭くてどうしようもない高校時代に、一緒にいてくれた人の死。
年齢にしては身近な死を多めに経験している自分でも、どうしようもない喪失感に襲われた。悲しみは心の底からいつでも湧きあがる。やり残したことの後悔は計り知れない。
そんな友人が最後に宿題を遺していった。
どうしたらいいのだろう。私はまだそれに手がつけられていない。心を整理したい。

死の間際、2度ほど彼女が入院した緩和ケア病棟に面会にいけて、そのうち1回はゆっくりと2人きりで話すことができた。
彼女は自分がステージ4のがんだとわかった時全ての治療を拒否したそうだ。
言い分はこうで「もう結構人生楽しんだし美味しいものも食べたしやりたいこともできたし、まあこれでいいっか、って思ったから」本当は他人にはわからない葛藤もあっただろうけど、そう語ることが彼女らしいと思った。卒アルの寄せ書きは「じゃあな」の一言だったし。
そして私にこう言った「ぼんごはさ自分のこと言わないからさ、みんなに誤解を産んだりするんだよ。だからさ、もっと自分をプレゼンするべきだよ」苦笑するしかなかった。

ずっと腎炎もメンタルの病もクローズにすることで、普通の人生が送れると思っていた。少し調子が悪いんだ、少しその計画には乗れないんだ、できないことは曖昧な言い訳を繰り返して人間関係を構築していた。
そのことで自分を良く思わず離れてしまう人は、仕方がないと思うしかなかった。
私は病気じゃない自分を演じていたかったから。

ぼんごぶろぐをやってX(旧Twitter)も始めてその中では包み隠さず病気のことを告白しているが、それはリアルの私を知る人間がいないから。
未だリアルではほとんどの人に病気についてはオープンにしていない。職場では通院等があるから上司には報告はしていたが、それ以外の同僚には全く普通を装っていた。少し体が弱い程度の普通の人でいれたかなとは思っているが…
それを今から周囲にプレゼンするということ。彼女が出した宿題。まだノートは白紙で問題から目を逸らしている。
「今が起点なのかもしれない」誤解を産まないために。自分自身を本当に理解してもらうためには、これは必要なことなのかもしれない。そんなにすぐに始められないけど、ただそんなに「普通に生きる」にこだわらなくても、何が普通なんて基準があるわけないのだから。
病気の話を少しずつ周りにすることも本当にちょっとずつでいいから考えてみようか。
出された宿題はやるのが私の良いところでもあったはずだし。

さて今年もあと2日。2023年もぼんごぶろぐ、またXでお付き合いいただきありがとうございました。blogの方は書き手の主人の仕事が今年は多忙だったことと、自分の中の記憶を出すのが少々苦しくなるので更新頻度が低くなってしまったこと、申し訳ないと思っています。
来年もきっとそんなに更新頻度は上がらない(もしくは日々の雑記のような過去をほじらないことがメインになる)かもしれませんが、細く長くでも続けていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。

2023年ぼんごのアイコンが白黒になった時の裏側にはこんなことが起こっていました。私なりの追悼の意でした。
2024年は自分もどうなるかはわかりません。それでも1日を終えて次の日を迎えられる日々の積み重ねを大切にしたい。
彼女のように「もうやることはやったな」と思える日々を過ごしたい。
blogを読んでくださるみなさま、Xのフォロワーさま、どこかでこの文章が目に入ったどこかの誰か。全ての人に日々の平穏と幸せが訪れることを日本のどこかの町の中年のおばさんは祈っています。
皆さまの未来が青空でありますように。

ぼんご

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