こども病院:ぼんごさんとこどもたち

腎炎

こども病院にはこどもたちがいた。
ぼんごさんがいた病室にもだいたい8人くらいのこどもたちがいた。みんなパジャマを着ている。3~4歳のこどもから13歳くらいのこどもがいた。

ぼんごさんの治療はこれまでと変わらず、基本的にベッドの上でじっとしていることが中心だった。
普段は本を読んだり小さなゲーム機で遊んでいたり、寝ていたりしたらしい。年の近いこどもと仲良くなって話したり、遊んだりもした。年上のこどもはお姉さんに見えたみたい。おたがい病気のことを話すことはほとんどなかった。

ぼんごさんは女子部屋にいたが、あるとき部屋に帽子をかぶった男の子がいた。ぼんごさんは不思議に思って面会に来ていたお母さんに「男の子がいるよ」と話しかけた。お母さんは静かに、その子は女の子だということを教えてくれた。髪の毛がなく帽子をかぶっていて、ぼんごさんには男の子か女の子か外見だけではわからなかったのだ。

こども同士病気のことは話さなかったけれど、帽子をかぶっているこどもが白血病を患っていることや、顔のむくんでいるこどもは腎臓病のこどもだということを、ぼんごさんは誰から教わるわけでもなく自然と覚えていった。

ひざから下がない骨肉腫のお兄さんがいて、ぼーと見ていたら、何見ているんだ、めずらしいのかよと怒られたこともあった。ぼんごさんは怖くなって逃げた。
白血病のこどもと一緒に塗り絵をしていたときは、ぼんごさんの塗っていた髪の色が気に障ったのか、急にもう遊ばないと言って去っていってしまったこともあった。その子は、髪の色が金色なんておかしいよ、とぼんごさんにはわからない理由で怒っていた。

入院生活の中で、難病のこどもが周囲にわがままを言ったり強くあたったりしている場面をよく見かけた。こどもたちはすさんでいるように見えた。難病の子供は自分の身体の行く末を悟っているため、わがままくらい言わせてほしいという心境になるのではないか、とぼんごさんには思えたみたい。

難病のこどもの心は複雑だ。
ぼんごさん自身も、幼稚園に行ったり公園で遊んだりといったこどもなりの社会生活を過ごしていなかったためほかのこどもたちとの距離のとりかたを掴めていなかったかもしれない、と言っている。こども病院で自分が見てきた難病の子供のふるまいは、自分自身の人との距離感のとりかたのまずさが相手に不快な思いをさせたからかもしれないと考えたりもした。

病室にはだいたい8人くらいのこどもたちがいて、たまに、病室をでてゆくこどもがいる。ふだんゆったりとした看護師さんたちがすこし急いで、こどもをベッドのまま病室の外へ運んでゆくのだ。
ベッドのまま出て行ったこどもが帰ってきたことはなかった。空いたところには、しばらくすると新しいこどもがやってきた。

ぼんごさんとこどもたちは、ベッドのまま運ばれてゆく病室の外に待つものが何であるかを、彼らなりに理解していた。こどもが連れてゆかれるたび、次は自分の番かもしれないと、いやな気持で一杯になった。

難病のこどもの生活や精神状態がどのようなものか僕にはわからない。つらい時間、かなしい時間、さみしい時間、むなしい時間、こわい時間、くるしい時間、いろいろな時間がこどもたちを無慈悲に取り囲んでいただろう。

自分自身で体験したことがない特殊な環境の中のこと、ぼくは、病気はつらいこととは頭ではわかっているつもりではいるものの、かれらに対して軽々しく「がんばろうよ」「ぜったい良くなるよ」みたいな言葉をなげかける気持ちになれない。それは、健康が日常であるひとの世界の話に聞こえると思うからだ。病気が日常のひとにとってはよくわからない言葉に響くかもしれないと思うからだ。何を頑張るの?何が良くなるの?と。

病気でないひとが病気のひとの気持ちを想うこと、それは想像の域を出ない。と僕は思う。五感を通じて苦しみを理解するなんて不可能なことで、闘病のつらさは経験したひとにしかわからない。

ただ、ぼんごさんの記憶を紐解いてゆくと、ほんのすこしでもわかったような気になってくる。たくさん話を聞いて、何を思ったか、何が嫌だったか、何が食べたかったか、何か苦しかったか、何がしたかったか、そういったことを理解しつづけて、また少し、わかったような気になるものを積み重ねてみたい。いつまでたってもわからないと思うけれど、だからこそ話をするのもやめないのだ。

何度となくいやな夜を過ごして、ぼんごさんは本当に幸いなことに、自分の足で病室を出てゆくことができた。しかしそれでも、こども病院で経験したことはいまだに強烈な印象を残している。いまは、大変だったねと心から伝えたい。

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