ぼんごさんと中学校:ぼんごさんとお母さん2

ぼんごさんと中学校

寛解の知らせを一番喜んだのはお母さんだったかもしれない。

紫斑病性腎炎を抱える娘を何よりも大切に思い、ときに優しく、ときに厳しく、ぼんごが人並みに生きていけるようになることを望んだ十数年だった。

詳しくは聞けないが、ぼんごが小学校の頃には、腎炎の主治医の先生からお母さんに、お母さんがぼんごのことを考えすぎてお母さん自身の心の問題が心配だと指摘されたことがあるようなことを、つい最近聞いた。

お母さんにとってはぼんごの腎炎のことはすべてが辛い記憶であるようで、おしゃべりが好きな人なのに、病気のことや看病のことやどう思っていたかとか、病院のこととかを自分から話してくれることはない。

なんとなく、腎炎は無かったことのようになっている。
お母さんにとってもそれはそれはつらい日々だったのだ。

お母さんが冷たくなる

自分なりの普通を見出そうと、与えられた普通をこなすことを避け始めていたぼんご。

寛解とは言え体調がほかの子どもたちなみに優れているわけじゃない。
彼らに追い付け追い越せと自分に鞭打つのは腎臓への不安を伴うことだった。

だから、自分にとって無理なくできることだけ、生々刹那主義で頑張った。
それでも、すべてが上手くできたわけじゃない。自分としては頑張っていても人並みに達しないことも沢山あった。とくに運動は本当に出来る気がしない。

そういうぼんごの変化の様子をお母さんも見ていた。

昔なら、何かに集中して夜更けまで頑張るようなことがあると、頑張りすぎるのを止めなさいと、ぼんごの体調を気遣ってくれていたりもしたが、この頃になると、ぼんごが何かに集中しているときは口出しをしなくなったらしい。

むしろ、お母さんの基準からして、ぼんごがぼんごの課題に真剣に取り組んでいないと見えたときは、ぼんごは頑張っていない、覇気がない、もっと頑張りなさい、と、叱咤するようなことが増えたらしい。

たぶん、家の中の出来事としてはとても微細な変化だったのだと思う。
優しい言葉が減って、小言が増えた程度の。

そういう時期が続いて、ぼんごはいつしか、お母さんが冷たくなったと感じた。

お母さんにしてみたら、自分はもはや腎炎と思っていないのかも。

押入れを探す

お母さんは本当にぼんごを守る一番大切な壁だった。

日常生活のあれこれを手取り足取り指示して行動させ、ぼんごはいつもお母さんの支配下にあった。
そのおかげで寛解の日まで過ごすことができた。

寛解を迎えて、かつてのかわいそうなぼんごは家を出て行ったようにお母さんは思ったかもしれない。

腎炎に打ち勝って普通に戻ってきた我が子がこれから希望たっぷりの未来へ羽ばたいてゆくのだと、家族の時計がまたひとつ進んだように感じたかもしれない。

だから、お母さんはぼんごが「頑張る」ことを喜んだ。
大切に守って死なせなかったぼんごが、これからは自分が想像するような素晴らしい成長をしてゆく理想の姿をぼんごのなかに見た。

もしかしたら、勉強ができて、優しくて、運動ができて、お母さんの言うことに従順で、家族思いで、むくみがとれて可愛い、そんな風な完全無欠な感じだったかもしれない。

だから、お母さん基準にぼんごが合致していないとき、理不尽なくらい怒り、まったく理解を示さなかった。
もっと頑張ればいいのに、全然この子は生き生きとしていない、自分の思うようになってくれない、頑張ろうとしない、怠けている。もっと女の子らしくきれいな服を着ればいいのにこの子は破れてボロボロのジーパンばかり気に入ってはいている!

お母さんの口からそんなようなお小言が良く聞こえるようになった。

本人が本人なりに工夫してやろうとしていることをつぶさに見ていて、お母さんの方法と違うと、それは間違っていると、こうやるんだ、などと言って口をはさみ、やきもきして、結局お母さんが手を出してしまうことが多い。

お母さんの意見を容れないと、それはそれで反抗的に映るらしく、怒る。

で、ぼんごなりのやり方で失敗するようなことがあるとそれ見たことか、お母さんの言うようにしないからだ、あんたが言うことを聞かないからだ、と、ぼんごを責めることが増えた。

お母さん流のやり方でうまくいったときは、ほらお母さんの言った通りだったでしょ、なんてお母さんのやり方が素晴らしいからだと、ぼんごでなく自分をほめるような言い方になった。

お母さんは基本的にぼんごの主体性を信頼しておらず、何も知らない子供と見ており、なんでも、お母さんの基準でぼんごを型に嵌めようとしていたようだ。

ぼんごを守る最大の壁は、ぼんごの自主性にとって最大の壁でもあったみたい。今でもそうだ。

ぼんごはこの頃から、お母さんの中身が入れ替わって別人になってしまったと思った。
寂しくなって、本当のお母さんは押入れの中に閉じ込められているという妄想にとりつかれ、本当に押入れを探したりした。

寛解を境にして、家族の形もすこし変わった。
こういうとき、ちゃんと言葉を尽くして話が出来たらとてもいいよね、と部外者の僕は思った。

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