カムアズユーアー。
お前はお前のままでいい。
寛解を迎えて普通に混じる暮らしを無理して続けていたところに、Nirvanaとの出会いによってお前はお前のままでいいとぶっきらぼうに告げられた気がして、でもそれは何か新しい自分の発見でもあったぼんごさん。
自分の中に、病院の先生や看護師や、学校の先生や、お母さんや、クラスメイトなどなど、自分に何かを期待する人々に対して、それに応えたいと思う自分と同じくらい、そういった期待から反発するように好き勝手に生きてみたいと思う自分が生まれ始めていた。
十代の魂の臭い
寛解を迎えて急になんでもやっていいよと言われても、まったくできる気がしない。
自分に期待したこともあった。できるだけ、挑戦はしてみた。
が、自由を得たからと言ってそれを満喫できるようになるかと思いきやそんなことは全くなく、普通に混じる努力をすることは苦痛を伴うことが多かった。
なんなんだこのもやもやは、と、ぼんごの心はささくれ立っていた。
これまで周りの大人の言うことに従って制限ばかり気にして生きてきたが、それは自分の世界を狭めていたのと同じで、壁によって矯正された自分を作って演じていたような気さえしてきた。
かといって、普通に混じるのは体力的にとてもつらいし、そもそもできない。
普通のなんと、難しいことか。
そんなとき、Nirvanaの音は心地よかった。
周囲に合わせなくていい、お前はお前のままでいいと、励まされるような、殴られるような気がした。
また、音に表れる荒さ、気持ち悪さ、重さ、汚さ、苦しさ、嫌悪感。
そういった負の感情が自分の心の中に封じられていたことも知った。
この音を聞くたび、心の中のぼんごもすこしずつ壁を殴った。
周囲の価値観に合わせて気持ち的に不自由になるより、周囲と違っていても、自分自身の自由な気持ちを保つことのほうが大切に思えた。
若い心はひとりきり。自由に羽ばたいてみたくなるもの。
中学生らしい思考と言えば、そう言えなくもない。
うーん、スメルズライクティーンスピリット。
(じつのところこれは制汗剤の商品名で、特別に抽象的な意味とかは無いんだそうな。)
ぼんご壁を殴る
壁を殴ってどうなる、どう変わる、そんなこと誰もわからない。
何が正解かもわからないけれど、これまでの状況を続けて自分を押し殺すことには耐えられないことを予感していたのか、何かを変えようとぼんごは行動した。
これまで壁の中で疑うことなく信じ切っていた良い行いを見直した。
意図とか思惑とか計算とかは無い。音に任せてただ衝動的に壁を殴った。
まず、勉強をしなくなった。
普通にやっていいと許可を得ることができたいくつかの運動も、結局普通にはできないので、適当にやるようになった。(水泳とかマラソンとかは相変わらず禁止。)
自然教室とか課外授業は普通に疲れるので、お母さんを通じて先生に不参加を申し入れた。
真面目に普通に馴染む努力をやめた。
出来ないことを頑張ってやるのはやめて、要領よく生きていきたいと思った。
出来ないことがあったってかまわない、私は私のままでありたいと願った。
友達ともそれなりに付き合うようになった。
塾も面倒になった。
成績が良いことに価値を見出さなくなった。
良い学校に行くことが人生の目標と思えなくなった。
勉強はテストの前に要領よくやればいいと思うようになった。
勉強を頑張っていてもえんぴつ事件のようなこともあるわけだし。
形だけの学級委員をやったりして(仕事は何もせず)、内申を効率よく上げようと打算的になったりした。
要は、普通の良い中学生でいる努力をすることをやめたのだ。
普通の世界に混じってみたら、結局自分には何もなかったことがわかったのだ。
人付き合いが上手だとか、スポーツができるとか、頭がとてもいいとか、愛嬌があるとか、一芸に秀でているとか、そういった自分の自信につながるようなことが何ひとつなかった。
寛解になったことをきっかけに、ぼんごの心は乱れに乱れた。
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