ぼんごさんと中学校:ぼんご好かれる嫌われる

ぼんごさんと中学校

なんとなし、教室の空気を退屈に感じるようになったぼんご。

友情は永遠じゃないということを学んでいたので女子の仲良しグループに所属する気はなかったし、男子の中にずんずん入りこんでゆく気もなく、いけいけグループに入りたいわけでもなく、いい子になりたいわけでもなく、悪い子になりたいわけでもなく、優等生でもなければ遊びまくる生活を送るでもなく、どこにも心を落ち着けておく場所は学校には無くて、ただひたすら耐える時間を過ごすばかりだった。

我起立一個人

そういった独立独歩の姿勢はクラスメイトからは不思議に映るようになったらしい。

音楽を通じて気の置けない距離を得ることができた何人かの友達を除けば、ぼんごはぼんごなりにクラスメイトとの距離を取るようになってきており、ようやく、集団生活のなかで自分を保つことを実践できてきていて、それは自分が普通との壁を見せつけられる瞬間を回避したり、自分の世界の中で善いと思えることに集中できるようになっていたことの萌芽でもあったようだった。

カムアズユーアーの精神でもあり、生々刹那主義でもあったのか、自分は自分自身のことだけに集中するのが良いとなんとなく気づき始めていて、周囲に気を遣って振り回されるのは心中に雑音をもたらすことだと思うようになったみたいだ。

それに気が付いてからというもの、もとから医者看護師といった大人の中で顔色を伺って過ごすことが多かったぼんご、他人が自分をどう捉えているかを敏感に察知できるということを、あらためて自分の中に発見した。周囲に振り回されるのはごめんだったから、空気を読んで、友達付き合いも無理することがなくなっていった。

I DON’T WANNA BE WITH YOU

ある朝、ぼんごは友達の一人に朝の挨拶をした。
が、返事がなかった。無視されたようだった。

以前のぼんごならこの出来事が悩みの種になって心中に雑音を聞いたはずだが、この頃のぼんごは冷めたもので、ああ、嫌われているなとこれを冷静に処理した。

理由はわからないけどなんかあったんだ、嫌われちゃったみたいだけど、とくに自分としては取り繕いたいこともないし、話す必要もなく話さなくて済むなら話さなくていいや、くらいに冷めたものだった。

お友達の一人ではあったけど、嫌われている気持ちを受け取った以上、お友達はそれ以上でもそれ以下でもなく、その状態から変わらない教室の風景の一部のように感じられて、すっかり、ぼんごの視界に入らない存在になったそうな。分かり合えない状況をあっさり受け入れて、その人は自分の世界に要らないもので、すっかりこの世に存在しなくなってしまった。

それで、彼女のいない世界で生活を続け、とくに何の不自由もなく生きた。

はあとぶれいく

だいぶ時間がたってから。
お友達の一人が、存在が消えたあの子がなぜ自分を無視していたのかの理由を教えてくれた。

曰く、存在が消えたその子が好いていた男子がいて、その男子はぼんごのことを好いていたらしく、その男子の気持ちを知ってしまった存在消え子はそのことで機嫌を悪くし、なぜかぼんごに腹いせをすべく、冷たくしたり、無視したり、悪意を向けていたのだということだった。

それを知ったぼんご、「へー」の一言のあと、心のメーターに変化はなかった。

くだらねえ、そんなことで自分を無視するのかと存在消え子を想った。その瞬間くらいは存在復活子だった。こういう事で私に悪意を持ってしまうのか、そうでしか消え子の気持ちを保つことができないくらい、不器用な奴だったんだと、なんだかその子のことを憐れに思う気持ちすら芽生えた。

こういう、普通の学生が好いた好かれたで一喜一憂するような思春期の甘酸っぱいあれこれに出くわす瞬間があってもぼんごの心は冷めたもの。どうも、こういう事象にのめりこむことが出来ない自分を見つけていた。

心の中では依然として自分の身体に対する不安が最大の関心事であることに、変化はなかったのだ。

他人との関係性に何かを期待し、夢見て、嬉しがったり悲しがったりすることにのめりこむ余裕は無く、他人に対して冷徹なのは、自分自身の身体のことで悩みはいつだってタンクいっぱいになっていて他人に構う余裕がないからで、そんな余計なことを自分の中に持ち込んで不安を増やしてしまうことは自殺行為といってよかった。

茨木のり子さんの詩じゃないが、自分の感受性くらい自分で何とかしてほしいもんだ。

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