ぼんごさんと腎臓 ―矛盾―

ぼんごさんと腎臓

6年生の途中くらいからは、ぼんごさんもある程度は「普通」に慣れてきていた。

それは、普通に生活を過ごせていたという意味ではなくて、ぼんごさんなりに普通との距離を置いた生活をすることに慣れてきていた、ということだ。

この頃には、ぼんごさんの心の中にはがすっかり出来上がっており、壁の中のぼんごさんと壁の外のぼんごさんとでその表情は異なるものだった。

ぼんごさんなりに腎炎と折り合いをつけて生きてゆくために仕方なく作り上げられた壁が、不器用な形でちっぽけなぼんごさんの気持ちをなんとか守っていた。心の中の壁は分厚くて鈍い感覚器のようでもあって、普通の世界から自分を攻撃してくるような情報をブロックし、壁の中のぼんごさんが深刻な状況にならないように制御していると言ってもよかった。

腎臓を守るためのルール

自分の腎臓は悪いから、疲れることは絶対にしてはいけない。
苦手なことや、やったことのないこと、体力を消耗するスポーツなんかは絶対だめだ。友達とのお出かけとか、公園で走ったりする遊びとかもだめだ。クラブ活動とか、スポーツ系の習い事なんかもだめ。一緒に駄菓子屋でお菓子を食べたりするのもだめだ。怒られる。
そういったことはぼんごさんがそれまでの人生でいやというほど教え込まれてきたことだ。それもけっこう厳しめに。

ぼんごさんは、心のどこかでは、自分もそういったことがしたいとか、自分にはどうしてそれができないのか、といった疑念のようなことを思わないでもなかったが、腎炎はもはやアイデンティティの一部となっており、腎炎と戦っている限りは自分は褒められる存在として認めてもらえる状態でもあった。

だから、このルールは腎炎であるかぎり絶対の秩序となって壁を支えており、こども病院にいたころと変わらないパジャマのぼんごさんを守った。

普通でいるためのルール

いっぽうで、学校生活に慣れてくれば来るほど、自分が普通とは異なる状況にあることがわかった。
学校というところはそれはそれでルールがあって、そのルールから外れると怒られたり、仲間外れにされたりするらしい。先生の言うことができていないとか、友達と違うことをしたとか、何かに積極的でないとか、何かに消極的だとか。ぼんごさんが「普通」を過ごしていない、という状態のとき、そのルールはやけに壁が高いように思えた。

いったい何をどうすべきかわからなかったけど、学校生活を続けるうち何となく、普通の壁を感じる瞬間があった。その手の壁を認識したときは、壁の外側のぼんごさんが働いて、身体に無理がかからない未来を選べるように、また周囲に波風を立てないように調和を求める態度をとった。

たとえば先生の言いつけは、目を付けられない程度に適当にこなした。体育に参加するときは疲れない程度に頑張った。学校行事はほどほどに力をいれた。
友達との何気ない話には、自分がそれに興味がなくてもついていった。仲間外れになると自分の中の面倒ごとが増えるので、○○君が格好いい、みたいな話題には作り笑顔で話を合わせた。

そんなふうに、ぼんごさんはぼんごさんなりに、普通に混じっていて変に思われないように工夫をして過ごした。

自分は腎炎だから、みんなに合わせるのがとても疲れることだから、体育は積極的に参加しない選択をしているし、本当に好きな人はみんなが言う人と違うから仲間外れになるのが怖くて言う気になれない、と壁の中のぼんごさんは思っていたけど、病気のことを他人に話しても理解されないことが多くて、むしろ病気のことを言うこと自体が普通と違うことを宣言するようなもので、病気を言い訳にして普通をサボっている、と思われたりするとそれはそれで自分の心の内外の波風の原因になってしまうから、自分が異端だと思われない程度に普通を装って、ぼんごさんは調和を選んだ。

矛盾

壁の中のぼんごさんが思うことはいつも本心であったが、普通を装う壁の外のぼんごさんは本心を隠して調和を選ぶことが常態化していた。

壁の中のぼんごさんの理想と、現実のなかでの調和は、ぼんごさんが多少目を瞑れば、だいたいは調和がとれた。
体育が無気力だからとちょっと注意されたり、ぼんごは友達付き合いにちょっと冷たいとか、そういった病院食のすまし汁みたいなうす~い悪意を我慢すれば、普通でいられた。そしてそういう時間はだんだんと長くなっていた。

本当の自分と外面の自分が違っていることなんてよくある。ぼくだってそれが通常営業だ。
成長の過程で自分がわからなくなって本心から望むことじゃないことに突き進んでゆくこともある。人間は内側の自分と外側の自分に矛盾を持ちながら生活している。
みんな悩んで失敗しながら大きくなるもんだ。すこしずつ折り合いをつけて成長し、だんだんと強くなってゆく、君もそうなんだ、ぼくもそうだったから、君が悩んでいる気持ちもわかるよ・・・。
なんてことを言えるのは、その人の悩みが普通の範囲にあった人の回想なんだろなと考える。

悩みの原因が自分自身の身体である場合、これはきつい。解消するのが難しいからだ。とくに重い病気や難病の場合は解消のしようがないからだ。どこへ行って何をしても悩みの原因が一緒についてくる。自分が生きるということは悩みの原因を生かすということと同じなのだ。健康な人にこれを説明しても、理解してくれることは稀だと思う。だから説明するのもやめてしまう。

腎臓のことが一番なのにそれは誰にも打ち明けず、本心を隠して自分と周囲を欺くように過ごす、精神的な矛盾によって、ぼんごさんは奇妙なバランスをとって生きていた。

調和が乱れる瞬間もあったが、腎臓を守る制限や、腎臓を守る壁が普通の世界からの衝撃を和らげてくれていた。

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