あれは高校2年生のこと。
パニック障害の症状が一番ひどかった時期のこと。
ぼんごの就学態度がおかしい、ぼんごの体調がおかしい、ということはもはや学校中の常識になっていたらしい。
いつも目が半開きで眠そうで、何事にもやる気がなく、表情はうつろで、ときたま、楽しいことがある時には目の奥がぎょろりと光るやばい奴に思われていたのだろうな、と本人は語る。
1/3の純情なさぼり
そんなぼんごをどう捉えていたかは人それぞれ。
不良、不真面目、というのが大半だったみたい。
でも体調を普通に心配してくれる人もいたし、それは友達でもそうだし、何人かの先生たちもそうだった。
このときの担任の先生はぼんごの病状に理解を示してくれる人だった。
どうやらこの担任の先生は各教科の先生に「ぼんごは体調が悪いから大目に見てやってほしい」というようなことを働きかけてくれていたようだった。
この先生のおかげで、ぼんごは勉学面で多少大目に見られていたらしい。
落第するかしないかのぎりぎりの状態のときに、及第のほうに若干色を付けてくれた先生が結構いたらしい。
しかし、化学の先生だけは別で、これを大目に見てくれなかった。
化学の先生は、1学期の最初の授業の時に「出席日数が2/3に達しないと単位はあげません」ということを明言していて、成績が良かろうと悪かろうとその場にいて授業に参加しているということを単位取得の絶対条件として据える人だった。
とても公平な考え方だと思う。
全員に平等に与えられている出席機会をちゃんと利用して、その義務を果たせばよいのだ。
だからぼんごも、可能な限り計画的にこれをさぼった。
1/3はさぼっても良いのだ。
化学反応
化学の先生にとっては教育も物質の集合だった可能性がある。
あれはぼんごのさぼり計画が破綻する状態になりかけたぎりぎりの日のこと。
どうやら担任の先生の働きかけは空しく、化学の先生はぼんごだけをえこひいきすることはできない、生徒の状態がどうであろうと出席日数は自然界の摂理のごとく不変で、このままだと落第させる、ということが職員室に知れ渡ったらしい。
いわゆる「化学反応」はこの先生とぼんごの間には起こらず、あっという間に、その授業に出席しなければ落第、という最後の授業の日が来た。
その日の朝が来て、ぼんごはと言えば、普通に発作を起こして家で丸まっていた。
今日が化学のぎりぎりの授業だということはわかっていた。
だめだ、こんな状態で学校には行けない。
留年を受け入れる大きな決断をするよりも、謎の身体の変調のほうが身に迫って恐ろしく、苦しく、自分にとっての目下の課題なのだ。気持ち悪いしめまいがするし、動悸があるし汗がすごい。幼少期から手放さない布をお守りのように握りしめてぼんごは耐えていた。
電話が鳴っているようだった。
普段なら無視する家の電話が鳴っているようだった。
鳴り続けるのでうるさく、やつれたぼんごは受話器を取った。
「ぼんご、今日は化学のある日だから4時間目までに教室に来い」
担任の先生だった。
「5分でもいいから」
担任の先生の意志が声になり、受話器と電話線を電気信号で伝わって、ぼんごの耳に届いた。
授業に出たくない意志が強いわけじゃなく、身体的に参加できないのだ。
が、この時は化学反応があったらしく、無理をした。
そのあとの記憶は曖昧で、とりあえず着替えて、ぼーっとしながら電車に乗ってひたすら耐えに耐え、普段なら最寄り駅で降りるところ、途中の駅で降りて何故かタクシーに乗って学校に運んでもらったらしい。
体調悪いながらも外に出られる状態であったとは言え、またいつ発作が来るかわからない状態でよく頑張った。転んだり何かにぶつかったりせずによく行けた。よく、耐えられた。
こういった、誰も知ることのない無茶をぼんごは割と頑張っている。
みんなが普通に過ごしているあの日あの時あの瞬間、発作が来ている人もいるのだ。
化学の授業が終わる10分前に教室のドアをがらっとあけて「来ました」と先生にわかるように言った。
そのあとは自分の席に倒れこんだ。みんなの目線が背中に刺さった気がするが、ぼんごは壁を発現させて自分を守った。
その年、ぼんごは無事に化学の単位をもらうことができた。なんとか義務を果たせた。
成績は前の学期から4段階下がった。赤点寸前だったが、化学の先生もあの日のぼんごの行動はしっかり条件を満たす態度として評価してくれたのだった。
なんとか3年生になれてしばらくたったある日、あの化学の先生が声をかけてきた。
曰く「あの日、一言謝れば4段階も下げなかったのに」。
なんと、謝るかどうかで評価が変わったらしい。
先生、それはえこひいきと何が違うのですか。
めっちゃ化学反応おこる奴じゃねーか、と後から聞いた僕は憤慨しました。
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