ぼんごさんと高校:力が入らない(パニック障害)

パニック障害

ぼんごさんは基本的にいつも緊張している。 外見上とくに緊張している風ではないが、見えないところでいつも力が入っていて、何もしていなくても、肩、腰、首、のような凝りやすい部分がいつも凝っている。

日常の緊張

ぼんごさんは日常生活レベルの活動でも身体は緊張していて、どうしてそうなるのかと原因を探ってみても、普通の生活の行動の中に原因があるようには思えず、またリラックスするよう促してもそれは一時的な緩和にしかならず、いつしかまた緊張の度合いが元に戻るような状態になる。

なんとなし、幼い頃のたまご生活の記憶や、行動制限の記憶(制限学校など)が日々の行動の中心に据えられていて、動かないでじっとしているように自分で自分の身体を見えない紐でぐるぐる巻きにしちゃっていて、自由に行動できるすっきりした開放感が無い状態を作り出すことがごく自然になっているのではと、僕は想像している。

もちろんなにか特定の事柄があればそれについて緊張することはある。面接とか。
そういう原因がはっきりしている緊張は原因がなくなれば緊張もほぐれるので、一時的なものでそこまで気にならず、瞬間的にえいやと頑張れている。

しかし、日常的な凝りについては、なにか特定の原因に緊張しているためのものではなく、上に書いたように、すっきりした開放感がない状態、自分の身体のリラックス状態がわからない状態、オンとオフが曖昧な状態、目をつぶっていても眠れないみたいな状態というか、身体がおやすみモードにならない、リラックスしている状態が感覚的にわからないことで、起きているときは無意識に身体がすこし強張る状態になっていて、何をするにも力が入ってそれが溜まると凝りや全身の緊張につながってしまっているようなのだ。

リラックスするのにあれがいいこれがいいとぼくが考えたところで本人の身体の緊張やリラックスの度合いは本人が感じることで、本人がいいのが一番。あれをしろこれをしろと無理強いするのは逆効果だから、ぼんごさんはいつも緊張している、というその事実を理解するのがよく、ぼく自身が緊張の種になることは避けて過ごすことで、必要以上に無意識の緊張を増幅させなければ日常の暮らしは特段問題は無く進んでいて、たまにマッサージに行ったり鍼をうったりすれば凝りもすこしはほぐれて、また普段の生活を続けられている。

幼少期に運動を制限されていたことで自分自身の身体が発するメッセージが、それ自体、ぼくが考えるぼくの身体のメッセージ(疲れた、緊張している、リラックスしている等)と違った方法で発せられているかもしれないし、それを受け取ったぼんごさんも、感覚的にこれは疲れなのか、緊張なのか、リラックスなのかを、ぼくが考えるようには処理できていないのでは、と、ぼくは捉えている。

ぐったりする

日常的に緊張しているぼんご。

何でもない生活の端々でもけっこう力が入った状態で過ごしている。

だから、学校へ通う、電車に乗る、授業に出る、のような日常生活においても、無意識のうちにかなり力を入れて過ごしているようだ。

そんなとき、発作が起こるとどうなるか。

よく発作が起きた、高校への通学時の電車ではこんな風になった。

口の中に唾が広がっているのが分かった。普段より多く出ているように感じられ、それが口から垂れてしまいそうな予感がある。飲み込まないといけないと思うも、唾を飲み込むのに喉をどう動かすんだっけ、と、何気ない身体の動きを忘れてしまったような感覚になった。

また、尿意がある。でも、差し迫ったものはなく、出る予感はしない。

膀胱の緊張がちょっと薄れたのだろうか。

それから、足が動かせる気がしない。足の位置を変えられない、踏ん張れる気がしない。

電車が揺れて体勢が崩れてバランスを失ったら、そのまま倒れ込んでしまいそうな感覚に陥る。

だから手すりをめっちゃ掴んだ。このまま立ち続けていることに自信が薄くなってきて、手すりを握りしめて、手と腕だけで全身を支えなきゃならんと、意を新たに立ち尽くす。足には力が入らないのに手と腕には頑張って力を込めていて、銀色の手すりが汗でじっとり濡れた。

普段の緊張が一気に緩んだようで、そこに立っているのがやっとのような状態。

突然にこうなる、周りの友達にはわからない。

数分してドアが開く。

ああ外に出られる、電車から解放される、とわかると、逆にささっと動けるようになったりもするらしい。 発作が起こることで筋肉の力が抜けるのか、普段はがちがちのぼんごが、瞬間的にぐにゃぐにゃのぼんごになって、溶けだしていってしまうらしい。

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