中学生になったぼんごさん。
腎臓の容態は安定していた。
腎臓内科には3か月に1度通えばよい状態になっていた。
まじめなぼんごさん
この頃になると、マラソンとか水泳とかの持久力を求められる運動を除けば、体育にも参加できるようになってきていた。ほとんどできることはなかったけど、できないなりに一生懸命授業を頑張った。
しかしやはり体力を使う活動は自分の世界には無関係なことのように遠い存在で、ぼんごさんは良くも悪くも壁に守られた。
しだいに、学校の内側だけでなく、友達と少し離れた町に出かけるとか、一緒に買い物に行くとか、そういった友達付き合いの中にも体力を使うことが増えてきて、成長とともに、ぼんごさんには、出来ることが増えた反面、出来ないと感じることも増えて行った時間だった。とくに、出来るが、体力を使うことがなんと多いことかを知った。
そのかわりというか、体力をそんなに使わなくてすむ勉強は頑張った。
学校は勉強を教わる場所で、だいたいみんな同じ環境で授業をうける。
成績が良ければ、勉強ができれば、学校という場所に自分がいて良いと感じるようになっていた。
勉強を頑張っている限り、自分はこのクラスの端っこに普通の顔をして座っていていいと思うようになっていた。
素直なぼんごさん、自分の意志で勉強をしているわけだけど、自分がしていることが本当は何なのか、いまいち良くわかっていなかった。
勉強を頑張る自分を見てくれる周囲の人の反応に合わせて自分を外側から形作っているのに似ていた。
身体が弱くても勉強をしていれば褒められるので、中学生のまっとうな価値観のなかでそうしていただけで、それ以外の目的はなかった。進路のためとか、特定の教科が好きだからとか、お小遣いがもらえるとか、そういう理由がなかった。理由なき優等生だったのだ。
まじめすぎるぼんごさん
あるとき、ぼんごさんは遠藤周作の「さらば、夏の光よ」を読んだ。
読書は、もはや懐かしくなりつつあった入院生活のころからずっと続いていた習慣だったので、中学生にもなれば小説のようなものにも自然と触れるようになっていた。
「さらば、夏の光よ」は、一人の女性を二人の男性が愛してしまったことで起きる物語なのだが、この本の結末を知ったとき、なにかぼんごさんの価値観に、今までと違う視点が生まれたのを感じたらしい。当時のぼんごさんが思い描いていた結末とだいぶ離れたストーリーだったが、なるほどこういう考え方もあるのかと、新鮮な空気を自分の頭の中に送り込んでくれるようでもあった。
人生って、自分の想像を超えた展開になるのかも。
なんとなし、そんなようなことの輪郭に触れたような気になったり、した。
いまの自分は普通を装い勉強に励む、一見まじめな中学生。
たぶん、腎炎のことを知らない人にとっては自分は優等生に映っているのだろうと、自分を認識した。
自分もそのことをわかっていて勉強を一生懸命頑張っている。
しかし、自分の腎臓はいつだって小説のような展開を迎えても不思議じゃない。
そのとき、勉強が何かの役に立ったりするのかしら・・・。
まじめすぎるぼんごさん、勉強の意味を分解し始めてしまった。
そしてわりとすぐに、自分には積極的な勉強の意志があまりないことを発見した。
このまま勉強を続けていてどうなるのだろうかと想像するも、そんな先のことがわかるわけもなし、想像しようとしても自分が永らえていて普通の生活に完全に馴染んでいる様子を見通すことが難しかった。
自分の腎臓は回復しないのだ。長生きができるとは思っていなかった。早くに死んでしまうだろうと思っていた。
これまでは勉強を頑張る自分というストーリーを追いかけるのに何の疑問も感じなかったのに、あの小説を読んだ時から、自分の人生にとって勉強はそんなに大切じゃないかもしれないと、勉強にたいして斜に構える姿勢をとる自分がいることを知った。
何のために勉強をしているのか。何のために学校に通うのか。
そんな、禅問答のような抽象的なことを感じる時間が増えた。
日常を惰性に任せて過ごすより、自分にとって、何故この行動が必要なのか、納得したうえで行動したいと思うようになっていった。
何のために治療をしているのか。
何のために生きているのか。
こども病院での時間のように、人生の結末には等しく死が待っているというのに、何のために自分は自分を動かしているのだろうか。
こんなふうに、ぼんやりとではあったが、学校の勉強に対する興味は急速に疑問に変わり、かわりに、生きるとは何なのか、といった古今東西全人類共通の本能的な悩みがぼんごさんの頭の中に膨らみ始めて、腎臓に不安を抱えて生きる自分の人生は何のためにあるのか、といったことを考える時間が増えてゆき、ひょっとして、その問題を考えるために勉強をするのでは、と、学校の授業ではなかなか教えてもらえない敏感な問題を解くべく、ぼんごさんなりの勉強を積極的にするようになっていった。
ぼんごさんなりの勉強のワンシーンは、本の中にあったり、友達付き合いの中にあったり、映画の中にあったり、誰かの話の中にあったり、漫画の中にあったり、また、大好きな音楽の中にはふんだんにあったり、した。
このときぼんごさんは14歳。
要するに、中二病を発症し始めていたわけだ。
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