入院生活には娯楽がなかった。
とくに、音を発する娯楽が少なかった。テレビはもちろん、ラジオもなかった。
あるときお母さんが「コロカセ」を持ってきてくれた。立方体のちいさなラジカセの一種で、ピンク色で角がちょっと丸い、かわいらしい形をしたやつだ。
一緒に、クラシック大全集みたいなテープも持ってきてくれた。
カセットの中には、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、モーツァルト、チャイコフスキーやヨーロッパのどこそこの民謡、みたいな有名な曲がたくさん入っていた。6つのカセットがあるセットで、ひとつあたり10曲くらい入っていて、けっこうなボリュームだった。
ぼんごさんは大好きな布を鼻のあたりにもじょっと置いて、ベッドに横になってイヤホンでカセットテープを聞いた。テープと一緒に、作曲家や曲のなりたちが書いてある写真入りの小冊子みたいな読み物があって、それも一緒に読んだ。
耳で知る世界
コロカセから届くそれはとても気持ちが良かった。
ぼんごさんはすぐにそれを気にいって、夢中で音楽を聞いた。
流れてくる音は、病院にはないものだった。
音楽は外の世界から、ぼんごさんの心にいろいろなものを運んできてくれるようだった。
ダニーボーイはお母さんが子供を戦地に送るときの悲しみや慈しみを。
可愛いもこもこの子犬がくるくる回ってはしゃいでいるような楽しい感覚は子犬のワルツ。
てっててて、てってっ、てってってーと規則正しく賑やかに踊るのはくるみ割り人形。
はにゅうの宿を聞いては、早くお家に帰りたいと、寂しく思った。
幻想即興曲とかやモーツァルトのトルコ行進曲とか、好きな曲は名前も覚えた。
ぼんごさんはいろいろな曲の有名な部分をすっかり覚えて、病院の朝に放送で流れている曲を耳で聞きつけては、これはあの音楽だ!なんて気が付いて楽しくなったりした。家にいられるときに見ていたテレビのCMやらドラマやらに使われている曲や、町の中で耳にする音楽にも覚えているものがあったりして、ぼんごさんの世界は少し広がったようだった。
ベッドの上でクラシック音楽を聞くのは飽きることがなかった。6つのカセットを順に、ひとつ聞いては次、またひとつ聞いては次、と次から次へと聞いた。
どこか遠い国の誰それさんが、ずっと昔に、それこそ何百年も前に感じていたその瞬間の感覚が、時間も場所も越えて、音楽となってぼんごさんの耳に入ってきて、ひとりベッドに横になるぼんごさんの心を照らしていた。
やさしい気持ち、かなしい気持ち、たのしい気持ち、いさましい気持ち。音楽はいろいろな感情をぼんごさんの中に運んできて、コロカセを通じて、曲の最後までずっと寄り添ってくれていた。
音楽はいろいろな感情を外の世界から運んできてくれた。感情を言葉で説明されるよりも、音楽で理解する感覚をぼんごさんは覚えた。音楽で感情を養った。
また、メロディやリズム、音色から、その音楽が鳴っている世界の広がりのようなことや、その音楽が紡いでいる物語のようなものも想像して、そういったイメージが頭の中で映像となって再現されて、音楽から別の世界へ旅立っているような気分にもなれた。それはものすごく楽しい時間だった。そして音楽を聞くのは体力の消耗が少なくて済み、本を読むよりも楽でいられた。
コロカセとクラシックを通じて、ぼんごさんは音楽が大好きになった。
それは、コロカセからうん十年が過ぎたいまこの瞬間も続いている。
心の旅
病院にいて聞こえてくる音は、機械の音や器具の音が多かった。
どこかからピコンピコンと鳴る、何を計っているのかわからない計器の電子音とか、点滴のスタンドがきこきこ鳴る音とか、ベッドがきりきり鳴るとか。金属の器具がかちゃかちゃ鳴るとか、ナースコールが鳴る音とか。無機的な音が多かった。
夜になると静かになって、そういう無機的な音が大きく聞こえる気がした。
眠りにつく頃には、同室のこどものうめき声や、遠くの部屋の子供の泣き声などが聞こえてきて、ぼんごさんはいやな気持を感じるのだった。
いやな気持ちを抱えても、伸ばした手を握り返してくれる人はいなかった。
ぼんごさんは、目を閉じて布をすーすーして横になって、食べたいものを暗闇の中に描き出して、眠りが来るのを待つしかなかった。
じっとしていると考えることが多くなって、頭の中がぐるぐるした。
暗闇が怖くなって眠れなくなってしまうことも少なくなかった。
そういう時は、コロカセに手を伸ばした。
やさしい曲や楽しい曲を選んで、自分の心を曲の中の世界に解き放った。
まばゆいドレスを着飾ったお姫様が踊るお城の中の舞踏会を覗いてみたり、小麦が揺れる畑にたたずむあたたかい農家の風景を想像したり、人々が賑やかに笑いあうヨーロッパの街の雑踏を想像したりして楽しんだ。
イヤホンの中の世界にいろいろな情景を聞きつけて、いやな気持ちを忘れて眠りについた。
音楽はぼんごさんの心を安らかにしてくれていた。音楽を聞くと、故郷に帰るみたいな感覚を覚えて落ち着くことができた。そのうち、だんだんと眠くなってくるのだった。
音楽とともに、ぼんごさんはいやな夜をまたひとつ、またひとつ乗り越えてゆく。
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