ぼんごと職

最近のぼんごさん

最近のことをつらつらと。

生きる

始まりがあれば終わりもあるわけで、人生は、始まった以上必ず終わる時を迎える。

何があってもその時が来れば終わりで、自分の意志ではそれをどうすることもできない。

老若男女、どこの国でもどんな身分でも、大富豪でもお金に縁がない暮らしでも、過去でも未来でも、地球上でも宇宙でも、等しく死は訪れる。

健康な人でも障害のある人でも難病がある人でも、その時は刻一刻と近づいてきている。

ぼんごはいずれ自分にも訪れるその瞬間を、恐れてはいない。

しかし、もしその瞬間に恐れることがあるとしたら、それは、生きていた時間に対する後悔を覚えながらその時を迎えること、だ。

もう人生の最終話の残り数分、というときに後悔をしたくない。

その瞬間には、自分は精一杯やった、満足だ、出来なかったこともあるが、やりきった気持ちのほうがほんの少し勝っている、といった心情で、納得して目を瞑りたいと思っている。

だから、自分の身体が普通とちょっと違うという状況はあれど、もしかしたらすぐにでもやってくるその瞬間のために、いつも、精一杯生きておくという準備を欠かさない。

病気に嘆いて悲観的に過ごすのではなく、その身体で精一杯生きていたいのだ。

難病について悩むこともあるぼんごだが、その悩みは、まだある時間を自分がどう生きていたいか、ということに向かっているものであって、病気そのものや社会や周囲の人間や見えない敵へ向かう内面的な悩みではない、のだ。(紆余曲折を経て、内面的な悩みからちょっと脱却できているのがようやく最近のことなのです。)

大切なのはどう生きるか、ということなのだ。

働く

現代社会では、生きるために金が必要だ。

だからぼんごは働いて、金を得たいといつも考えている。
働いて衣食住を確保する暮らしができれば最高だ。

金は学校の先生や親や表面的なお友達と違ってあーだこーだ言わないので、ぼんごの複雑な心情を黙って見守ってくれていた。

また、ぼんごにとって働くことは社会とのつながりそのものであって、働いていられる現実は自分が普通に混じって世の中の一部を動かしている充実感にもつながった。

だから、働けていてお金を得られているという状況は、ぼんごにとってかなり大切な意味を持つことなのだ。

しかし今世は新自由主義まっしぐら。

効率重視で競争し、利益を永久に追及してゆきそうな社会にぼんごは組み込まれている。

同じ時間働くのに、利益をより多く出せる人間のほうが働きやすい世の中。

これはぼんごの就職にとっては難しい状況だ。効率重視の基準では、ぼんごのように体力的に劣る人は不利だ。

難病を持つ人は総合的に体力に波があって就労環境を選ぶ必要もあるのだが、いっぽうでは、決定的に何かが出来ない状況を規定できないのも難しいところだ。

例えば、障害者雇用率という制度があって、これは、従業員が一定数以上の規模の事業主は従業員に占める身体障害者・知的障害者・精神障害者の割合を法定雇用率以上にしなければならないというもので、障害者の職業の安定を図ることを意図した法律だ。

この法律のため、障害者の雇用については(全然足りないのではと推測するが)、ある程度の量の雇用機会が開かれているはずだ。

しかし、難病については同様の制度は無い。就労に対して利用できる制度はあるが、雇用を義務化する法律は、無い。難病の人は雇用状況について、法的に救われる対象とはされていない。(2022年10月ぼんごぶろぐの僕しらべ。)

僕も難病、と一言で済ませてしまっているがその病状は症状は様々で、法律を作ろうにも基準を制定するのが難しい現実もそこにはあるのだろうと推測する。

また、科学技術の目覚ましい発達に伴って医療も急速に進歩しているはずで、難病を抱えている人々が新しい医療で寛解を迎えられる機会も増えている一方で、難病を抱えながら過ごす人生の時間が長くなっているのだろうということも、想像する。

そんなこんなで、難病を持つ人は、難しい病状を抱えながらも普通組の一人として現代社会で競争に参加しなければ金を稼げず生きてゆけないという、大変な時代を過ごしているわけだ。

職がない

宇沢弘文という経済学者がいて、その人が提唱する「社会的共通資本」という考え方がある。宇沢弘文という人は新自由主義を説いたミルトン・フリードマンその人とシカゴ大学で直接議論を交わしていた大変な偉い人だ。

社会的共通資本とは簡単に言えば世の中で共通の資本を持って、共通の資本で財源や資源を賄って、人間生活の基礎的な部分に関する社会的な制度、環境、たとえば道路とかガス水道とか教育とか医療とか、農村や都市の機構とかを保護してゆこうという考え方だ。

何でも民営化を促進してゆく新自由主義と逆方向の考え方で、競争によって利益を追求してゆくのではなく、みんなで利益を保護する考え方であって、この考え方の根底にあるのは、競争が激化する中で生まれる弱者にも普通の生き方を保証するにはどうしたらいいか、経済の力によって起こる人間の幸不幸の格差を是正するためにどういう方策があればよいのか、そのとき経済学者は何を考えるべきなのか、といった、金の力が引き起こす問題に金を使って対処する、博愛的な感覚なのである。

僕はこの考え方に触れて、なるほど経済学者は弱者に寄り添うために金の力を使う発想もあるのだなと何だか目からうろこだった。経済学に抱くイメージはどうやって金を効率よく稼ぐか、どうやって損を最小限にするか、みたいな損得の学問のような気がしていたからだ。

この社会的共通資本のような考え方に則って、難病の人々の暮らし、とくにぼんごの場合は就労支援や雇用支援という形で社会的基盤があって、広く利用しやすい状態になっていれば、もっと生きやすくなるだろうなと感じる。

現状でもハローワークなどで就労支援の仕組みがあるはあるようなのだが、難病と障害の基準があいまいだったり、法律が無いために雇用側が難病の人の雇用に消極的だったりもするのか、あまり利用されていないような気がする。少なくともぼんごは使用しなかった。

民間でも、難病の人の生き方や働き方をサポートする団体もあるが、網羅的にサポートするのは難しいから、自分の病状に合ったサポートを探すのは非常に難しいと感じた。

こういった取り組みがもっとしっかりと世の中に根付いたら、難病の方々の就職活動もずいぶんとやりやすくなるのだろうなと想う。

職があった

この度、本当に縁あって、ぼんごは就労することができました。
在宅の事務仕事です。体調にも無理のない環境です。
モゴサン状態から抜け出して、最近は平和な日々です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました