ぼんごさんと高校:パニック障害が与えた影響

パニック障害

高校に入って1年間、ぼんごはは新しい環境に慣れる努力をした。

腎炎は寛解を迎えて何をしても良いと言われており、普通の一員に混じって暮らし始めたものの、壁のない生活のなかで、いったい自分に何ができて何ができないかを再度定義するような時間だったのだろう。

たぶん、意識しないところで結構な無理が生じていたのだ。

School

何か決定的な原因が存在したわけではないし、病院に行っても身体的な不調は確認されなかったが、ときおりひどい体調不良の嵐がやってくることが日常的になってきてしまっていた。

通学に使う電車でよく発作を起こすことに気づき、電車を嫌がるようになった。
電車を使う通学が成功するかどうか、毎日がギャンブルのようなものだった。

電車に乗るのが嫌で嫌でしかたなく、無事に学校に到着できるかどうか自信がなくて、自信がないというよりかまた体調を崩したら嫌だという不安を感じて憂鬱になってゆき、そのうち、通学という行為自体を避けるようになり、それを避けることは学校から遠ざかるのを意味した。
学校に行きたくなくなり、休みがちになった。

学校に行けても、授業には集中できなかった。

体調を崩すと授業どころではなくなってしまい、勉強は遅れた。
勉強に向かう気持ちよりもはるかに強く、自分の身体の不調の原因は何なのかということに強い心配を覚えた。

勉強する気力を保てなくなって、成績が下がった。

教室でも体調を崩すことが増えた。
出席日数に厳しい先生の授業のときは、授業中に体調を崩すことも起こった。

Where is my mind?

学校で体調を崩したときは保健室に逃げた。

布のないベッドの上で目を閉じて丸まって、嵐が過ぎるのを去った。
かつてのたまごのような時間だった。

よく保健室に行くので、友達が心配して声をかけてくれたりした。
が、あまりにも頻繁に保健室に行くので、そのうち声をかけられることもなくなった。
ぼんごはぼんごで、友達に何かを期待することもなかった。

なんとかぎりぎりのところで賭けに勝って学校に来られたら、遅刻だと先生に叱られ、でもまだ気持ちが悪く、元気そうな友達とすれ違って、力の入らない足取りで脂汗をかきながら保健室のベッドに倒れ込んで、薄い酸素をたくさん吸おうと呼吸を荒くしながら、ぼんごは耐えた。

私はどうなってしまったのか。
どうなってしまうのか。

ひとりぼっちでそんなことを漠然と思った。

この苦しみを誰かに相談しても、わかってもらえる気がしない。
病院に行っても不調は無いと言われる。
先生は叱ってくるばかり。
友達は楽しそうに笑っている。

先生や友達に症状のことを伝えても、自分が嘘をついていると思われていることを、表情から感じた。
他人の怪訝な顔に、ぼんごの症状を弁解して納得させられるだけの知識や力を、ぼんごは持っていなかった。ぼんご自身、自分の症状が何なのか全くわからなかったのだから。

他人から見たら、ただよくさぼる不真面で変な奴、たまに無気力にぼーっとして心ここにあらずの状態になっている変人というくらいにしか映っていないのだろうと想像した。

見えない敵が自分を邪魔しているに違いない、などと考えるようになった。

そして、発作のたびに少しずつぼんごのレールは分岐していって、いつしかそれは普通をはずれて、いわゆる「ぐれた」方向へ伸びてゆくのだった。

見えない敵との戦いの戦況について、ぼんごは、両親には一言も相談しなかった。
理由は「面倒くさいから」だ。

お母さんに報告したところで、あんたは甘いのよと怒られて、でも大きな心配をかけるだけだ。
腎炎だって寛解しているだけでいつまた再発するかわからない、ようやくお母さんにとって安心できる時間がやってきたというのに、ここで新たな問題を家に持ち込む戦法はぼんごの頭には無かった。

だからいつも、ひとりで悩んでいたらしい。

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