ぼんごさんと高校:不安

ぼんごさんと高校

ぼんごは通学途中にたびたび体調を悪くした。
なにか特定の事象への反応ということではなくて、いきなり謎にやってくるもので、自分自身、この発作がなぜ起きていて、どうすれば回復するのか、どれくらいで去ってゆくのか、これ以上ひどくなるとどうなるのか、どこか身体の一部が病気なのか、そういった具体的なことは一切わかっていなかったのだった。

電車で我慢する

その朝も、いつも通り友達と待ち合わせて学校に向かうぼんごがいた。
ホームに電車が来て、乗り込んだ頃は特に気になるところはなかった。

ところが、ひと駅ずつ降りる駅に近づくにつれ、異変が起こってきた。

そんなはずあるわけないのに、高地にでもいるかのように空気が薄い。
浅い呼吸を何度も繰り返してしまう。

それで、こんなふうに思う。

もし今日、この電車の中で発作が起きたら、きっとめまいがして立っていられず、気持ち悪くなって倒れ込んでしまい、友達や周囲の人に迷惑をかけることになる。同じ学校の生徒にも見られるだろう。いやだ。

そうなるかもしれないし、ならないかもしれず、それは、その時点では妄想、なのだが、そう考えただけで、本当にそうなってしまいそうだという不安がどんどん強まって、心のBPMがズタズタ速まり、現実にそういうことが起きている自分を想像してしまい、悪循環に入ってさらに不安が増してゆき、何もしていないのに汗がつーっと身体を伝って、不調が加速的に悪化して行ってしまうのだ。

だが、この駅と、その次まで我慢すれば降りる駅だ。あと何分だ。
そうだ、息をしよう、息をするの忘れてた。
逃げられない、つらい。でも我慢我慢、あと少しだけ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ。

と、ほとんど出ていないつばをなんとかぐぐっと飲み込んで、我慢我慢と、友達の会話をすべて無視してぼんごは発作にひたすら耐える数分間を過ごすのだった。

こういった発作に耐えられるときもあるし、耐えられないときは途中下車して休み、その日は学校を休むことが多くなった。

電車が恐ろしい

そんなことが度重なるうち、ぼんごは電車に乗ることに不安を覚えるようになった。
電車に乗るということが自分の不調を呼び覚ますことを体感的に学習しており、電車に乗ることに対して不安を、苦手意識を強くもつようになってしまい、電車に乗って移動することそのものに嫌な気持ちを持つようになった。
それは今でもそうで、今は昔からしたらかなり回復しているものの、できれば、すぐに降りることが可能な各駅の電車を好む。

それで、発作が起きるかどうかはわからないのに、電車に乗るという行動が避けられない状況になると、電車に乗る行為そのものに不安を覚え、それが発作を呼び覚ますようになってしまった。

最初は小さな変化かもしれないが、無理して電車に乗ると乗っている最中に不安が増幅していってひどい発作になる、というストーリーがぼんごのなかで出来上がってしまい、不思議なことにぼんごの身体はそれに応じて素直に不調を発現してしまうのだった。

ぼんごは、この自分の身体の変調が怖かった。
これは腎炎とは別の何かで、ようやく自分の身体の弱さを忘れられると思っていたところに、やっぱり自分は普通じゃない、みんなが普通に出来ていることを、電車に乗って数分を過ごすという程度のことすらもまともに務められないダメな人間だったんだ、と悲しく思った。

それでも、1年の時は進級に影響がない程度には、学校に行ける日もあった。
が、2年になったころには、この手の不安はいつもぼんごの手を握れるくらい近いところにおり、ファミコンのRPGのごとく、生活の端々で突然現れる見えない不安とエンカウントするのが、生活の一部のようになってしまっていた。

こういった、実際には発作は起こっていないのに、それが起こることを想像して不安を感じて不調になってしまうことを「予期不安」という。

じっとりと汗をかいて鼓動が速まるのを止められない、遠くからあの不安がやってきてしまう、という感覚を音にするならこれしら、と勝手に思うぼく。

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