blogもほぼ中学の終わりまでやってきた。
この頃は母との関係の変化を多く感じたところだった気がする。
そして実に25年以上私と母の関係は遠かったことを思い出した。
理解し合わない関係
私の腎炎が寛解を迎え思春期に入った頃から、母と私の関係は希薄になっていった。
母はそれまで「何をしてはいけない」「これを食べてはダメ」と禁止事項を言うのが仕事というほど私を腎炎から守っていたのだが、それが終わった瞬間から普通の子供への接し方がわからなくなった気がする。
例えばこれダメあれダメは多少あったものの、「勉強やりなさい」「宿題終わらせなさい」「テストでいい点とりなさい」そういった勉強のことは一切言わなかった。
また私がどんな生活をしているかも、それほど熱心に注意して見ていた気がしない。
それ故に私が普通の学校生活が送れなくて泣いていても話は聞いてくれなかったし、テストでいい点をとっても大して褒めてくれることもなかった。
母が一番喜ぶのは「今回の検査結果も問題ないです」と医師に言われている時だけ。
私は普段何かで悩んでいた時は母に相談せずに自己解決する、人生の岐路に立った時だけ父を交えて相談するということを、この頃から密かに決意した。
寂しいが母はご飯を作ってくれるだけの、理解をし合わない人間になってしまっていた。
冷たい娘と怒る母
妹と母は性格が似ている(これを言うと妹は怒るが)
心配性の癖にその心配を怒りに変化させるところ、その矛先が子供に向いているところ、怒りを堪えることなく瞬間湯沸かし器のようにぶつけるところ。
妹が高校生くらいの時に母と口論になり、母に頬を叩かれたことがあった。次の瞬間妹は母の頬を叩いた。
それから2人で叩きあい?殴り合い?を始め父親に止められていた。この時の私の心境は「親を殴る子もいて、子と同じ視点で喧嘩する親もいる、やばい2人」だった。この喧嘩の理由はわからないが、よく口論はしていたので妹が何か悪さをしたことを母が注意しただけだろう。しかしエキサイトすると暴力にまで及ぶのだ。そしてこの2人、なぜかこんな喧嘩をしたにもかかわらず次の日には普通に話をしているのである。「今日のテレビこれ見たいよね」とか。
私も母に注意されることはあったが、どうしてこういうことになったか理解しない人とは会話もしたくないという態度だったので、ずっと聞こえないようにしていた。それが本当に長い間ずっと、理解し合えないもの同士が生活を一緒にするといった歪な形となっていた。
コロナ禍がもたらしたもの
本当に25年くらい母と私はこんな関係だった。
その間に大学進学、就職、結婚、腎炎再燃、父の死と色々なことが入っているのだが、どこを切り取っても母と私は分かり合えていない気がしていた。
大学進学してもちゃんと大学で勉強しなかった、就職しても正社員になれなかった、結婚して嬉しいのは私を旦那に引き取ってもらえたから……
こんな言葉を聞くたびになんでこんなつまらない関係を続けているのだろう、父親が「お母さんと仲良くしなさい」という遺言を残さなければ…と恨めしく思うこともあった。
そしてコロナ。私は仕事を辞めていて再度就職をしようと思っていた時の不測の事態。
母は私以上に不測の事態。元々アクティブで60歳までフルタイムで働き、その後父や友人と旅行。父が亡くなってからは様々なサークルに入って活動してきた人間である。そんな人がSTAYHOMEと言われて家から出られなくなった。
家に私と母。こんなに長い時間2人でいたことがないので会話もない。
最初は私の生活態度への小言の連続で、気が狂いそうになった。だがきっと元々愛想が良くおしゃべり好きな母は、この何もできない状況にもっと苦しくなっていることがわかってきた。
家にいて1人遊びが苦手なんだ、と少し母に歩み寄りNetflixでドラマを観ることをオススメしてみた。まんまとハマった。その後本を読むことをオススメしてみた。こちらもまんまとハマってくれた。
それからインドアの達人(?)の私は様々なものをオススメしてみた。色々と私の言うことに納得してくれるようだった。
そしてぽつり「私は今まであんたが何を考えているのかいつもわからなかったけど、それはお母さんがあんたのことを理解しようとしなかったからだった。悪かった」と言った。
これから
ぼんごぶろぐを始めるにあたりどうしても知らなければいけないこと教えてほしいことは母に聞かなければいけなかった。でも母はかたくなに「忘れた」「覚えていない」というばかりだった。私が忘れたかった記憶は母にとっても忘れたい記憶だったのだ。それでも当時は夢中で私を死なせないように、どうにか普通の生活を送らせるように、今のようにネットがなく友達もいない中で心配を怒りに変えることもなく優しく接してくれた母に初めて尊敬の念を持った。
コロナ禍。未だ先の見えない状況。生活も不安定でメンタルも不安定になる。
ただ母とこれだけ長い時間を過ごして互いを理解し合えたことは、まんざらでもない時間だった、とそのうち思える日が来る、そればかりを祈っている。
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