ぼんごさんと小学校:特別扱い

腎炎

を読むのが好きだったぼんごさん。
学校の教科書を読むのも好きで、入院中にひとりで教科書を読みふける時間も長かった。

国語の教科書は読み物が多くて普通の本と変わらず読んだし、社会科で使う地図帳では日本各地の地名や風土や景色や名物など、行ったことのない世界の空気を越しに吸った。図工などで使う美術系の便覧をぱらぱらめくっては、ヨーロッパの絵画や彫像、美術館の雰囲気などから、遠く離れたところにいるかもしれないドレス姿のお姫様を想像して空想旅行をしたりした。

そんな感じで図らずも予習に怠りがなかったぼんごさん、学校の成績は良かった。

身体が弱いのに偉い

ある日学校で、担任の先生がぼんごさんのことを話し始めた。

曰く、ぼんごさんは身体が弱い、病気と戦っていて何か月も入院しないといけないことが度々起こる、でも、勉強を頑張っていてクラスの中でも成績が優れている、自分の身体に負けないように一生懸命頑張って勉強しているのよ、というような話だった。それで、みんなもぼんごさんを見習って良く勉強しましょうね、と続いた。

ぼんごさんはいきなりこんなことを言われて恥ずかしくなった。
みんなが自分に注目しているのを感じて少し顔が熱くなった。
うつむいてランドセルを見た。自分の顔もこんな風に赤いのかも。

少しして緊張もほぐれると、先生がなんで急にあんなことを話したのかを不思議に思った。
たしかに、体調はいつも通り良くなく、成績は良いほうだと思うけど、そこに何の関連があるのか理解できなかったのだ。

「ぼんごさんは成績が良い、素晴らしい生徒です」じゃだめなのか。
やっぱり、「ぼんごさんは身体が弱いのに」という飾りがないとだめなのか。

ああ、私はみんなから、身体が弱い人と思われてしまうのだなと、ほぼ無意識のうちにそんなようなことを思ったようだ。私が自分と普通とが違うことを認識しているように、みんなのほうも自分たちと私が違うことを認識して毎日を過ごしているんだなあと、思い知らされるようなことだった。

しょうがないか、それが本当のことだから。
私が普通に混じりたいと思えば思うほど、みんなからしたら、普通の外から普通じゃないものが割り込んでくるように思えるのかもしれないね。

私は特別扱いされる対象なんだ。
私はそんなこと特に望んではいないけど・・・。

子ども、大人、普通、特別

成績が良いと言っても、ぼくが当時の通知表を見る限り、もっと良い人はいそうな雰囲気だ。苦手な教科もありそうな感じ。

ただ、成績の数値じゃなくてコメント欄のところに、真面目とか、責任感あるとか、規則正しいとか、優等生っぽい言葉がどの学年の通知表にも書かれている。学校生活に自分を合わせていこうと素直に頑張る子どもだったんだろうなと思う。いまとあんまり変わらない。

いっぽうで、学校生活にまじめに取り組んだ、という系統のコメントと同じくらい、体調のことも書かれている。「外見のわりに身体の中は大変だったようですね」とか「思ったより元気だった」とか「はらはらすることがあっても乗り越えていた」とか「冬を乗り切れるか心配だった」みたいなことだ。あるときは3学期の成績やコメントがすっぽり欠けている。まるまる学校に行けなかったかららしい。

通知表にはっきり体調のことが書かれているくらいだから、普段の学校生活においても担任の先生はぼんごさんにとても気を遣ったことだろうと思う。学校で何かがあったら大変、いちどに何十人もの元気の塊の面倒を見るわけで、ぼんごさんにだけ時間を割くわけにはいかない、しかし、よく注意しておかないといつの間にか青くなっているかもしれないという、気が気でない存在だったはず。

だから、ぼんごさんが人並みを過ごせたときには、先生のほうも思わず特別扱いのような言動をしてしまうときもあったのだろうなと考えたりする。

そしてそんな態度は、少しずつ周りの子どもにも移った。
ただ、子どもは大人ではなかった。

ぼんごは先生のお気に入りだ。なにかあっても許されている。
体育はいつもさぼっているけど、先生からいつも5をもらってる。
そんな根も葉もない噂を聞いたりもした。

自分が意図しないところで自分が出来上がっている。
特別扱いされるたび、ぼんごさんは悲しくなった。

もっと普通に接してくれたらそれだけでいいのに。
私の普通はみんなにはわからないんだな。

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