命はいつまでも(文:ぼんご)

ぼんごさんという人

主人が忙しいのでまた私、ぼんごが駄文を書かせていただきます。
稚拙な文章なのは笑い飛ばしてください。

私の好きな言葉に生々刹那主義という言葉があります。
大学時代、岩野泡鳴を研究していた時に出てきた言葉だと思うのですが、参考文献がないので未だどこに書かれていたかは謎(笑)
ただ意味としては生きるために今日を刹那的に過ごすということで、今日だけ頑張ればいつか点が線となり人生というものになるということになります。

私の深い記憶の中に「中学生まで生きられるかわかりません」という言葉があります。
これは母が私が中学生になった頃に、医師にそう言われたけど生きていてよかったね、と言ったものだったのかなと思います。
確かにこども病院時代亡くなる子供は多くいました。白血病が多かったのですがネフローゼの子供も亡くなり、母のもとに電話がかかってきたことは覚えています。
自分自身もやはり血便や継続的に続く痛みを感じるとあの子たちの元へ行く日も近いのかなと思ったことは子供なりにあったのではないかと思います。紫斑病性腎炎で死ぬかい?と今笑った方がいたら…それは2021年だから笑える話であり1980年代しかも幼い私にとって、死こそ身近であり、死こそ楽になれるものであった子供の考えをちょっと真面目に捉えてください。

死を近くに考えるとそれからの人生どうでもよくなってしまった、というか考えることが無くなっていました。
それはずいぶんの間です。高校も大学も(このころは寛解していましたが)実際どこに行ってもいいと思っていました。高校時代の担任には進路相談で「ぼんごはどこの大学でも受けてもいい(だってどこにも受からないだろうから)」と言われたことがあります。当時は何も考えませんでした。自分の命はどこで尽きるかわからないから努力をしても無駄。とにかく無駄。無駄無駄無駄無駄(DIO風)
その後1浪して入った大学も勉強よりその瞬間を楽しく生きられればいいと思っていました。人生生々刹那主義。これが私のポリシーでした。

それから20年。死なない…

医学の進歩と自分の考えと体の相違により、私は即死ぬ病ではない…それを知った時の嬉しくもなく逆に絶望した気持ちをどう表現したらいいのでしょう。
だったらもっと勉強したよ!もっと就活したよ!もっと生きることを考えたよ!
馬鹿だと笑われるかもしれませんが、未来など無いとずっと思い、1日1日をなんとか生きていけばいいと考えた人間は逆に生きられることに絶望するのです。

ぼんごぶろぐを始めて私は生きるに値する人間なのかということをとても考えました。
ずっと限界を超えないように生きてきて結局死なないのか?!
なんだか馬鹿みたいと感じました。

今、腎炎で悩んでいる学生さま(腎炎以外はわからないので腎炎限定にします)、今後30年の人生を考えてみてください。努力は無駄にはなりません。死ぬほど努力して後悔のないように生きてください。今だけの快楽におぼれず点を線として、今後の長い人生みんなと同じに生きてみてください。できることならお金に困らないように株やETFなど不労所得の勉強も。もしくは資格を何か取ってそれを活かせる職業に。
これは腎炎40年の先輩の言葉だと受け取ってください。私のようなミスは犯さずに。
今後もっと深い医療の発達が期待されるので、人生は普通の方と同じと思って生きてください。

悲しみと絶望の果てに恐怖を感じながらそれでも私は生きてやるという決意を持ち、不惑ではないが40を超えてそう考えられたのはもしかしたら幸せなのかもしれない。美しく死ぬより醜くても生き延びることが大事ということが理解できた今日は素晴らしいものなのかもしれないです。

追記:この文章は私の気が向いたときに書いた備忘録的なものであり、生きたくても生きられなかった、生きることより死を選んでしまった方に向けたものでは全くありません。社会的な状況に影響されていないことを理解していただけたら幸いです

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