小学校時代まで(文:ぼんご)

腎炎

ぼんごぶろぐも48回(特別編含)で私の発症から小学校時代までが終わった。
長いようであっという間だった気もするし、変な感じだ。

このブログを作るにあたり当時の記憶を呼び起こすことが一番苦心した点である。
以前も書いたが私は腎炎ではないと思い込んで記憶を封じ込んでいた。このことは私が生きる上では大事なことだったのである。だからその蓋を開けるのは容易ではなかった。

また母親への取材的な聞き込みも難しかった。母は私を生かすためにそれなりの苦労をしたわけなので、ブログの途中にも出てくるが嫌な思い出として記憶をどこかへやっていたのである。

母から出てきた何個かの単語(血小板減少性紫斑病、ワーファリン、血漿交換など)から、自分の記憶と照らし合わせて小学校時代まで終わったのはなかなか感慨深い。
だが1回蓋を開けた記憶はどんどん流れ出るものなのだ。ブログ中に書けなかったエピソードをここに記したい。

①ワーファリン

ワーファリンは最初飲み薬ではなく入院中に点滴で使用していた。
「これはちょっと血が止まりにくくなるのよ」と医師か看護師さんに言われた記憶がある。きっとあの治療はワーファリンを使った治療だったと推測する。
ある日、その点滴の管が抜けたことがあった。寝ている最中に管の中間が外れたようで、そのまま朝になり起きた時は血まみれになっていた。
今では笑い話だが血まみれの私に気づいた看護師さんの動揺が恐ろしかった。その後私の点滴の管は厳重にテープでぐるぐる巻きにされた。

②民間療法

当時の母親は腎臓にいいと言われるものはなんでも私に飲ませた。今でいう民間療法的なものか?
へちまから絞った水、スイカを煮詰めたもの、よくわからない漢方薬…。
この漢方薬はざらざらした粉末で毎日小さなスプーン1杯弱飲まされた。これがなんだったのか本当に謎だったので母親に聞いてみると「あれは孫太郎虫よ」と簡単に答えた。
孫太郎虫…孫太郎虫…検索してみるとムカデのようなもので、小児の疳の薬であるようだ(小児腎炎に効くは謎)。だが高価なものだったようで現在ではほとんど売っていないらしい。

③病院でのおやつ

小学生になって入院した大学病院では午後3時におやつが出た。おせんべい、チョコレート、カスタードケーキなどがそれぞれの子供に配られるのだが腎炎食だった私には、「いつも田舎のおばあちゃんちにある」で有名な寒天ゼリーしかこないのである。
あー、あのときの悲しさは何とも言えない。今だったら気が狂うかも。子供は正直で逆に無知なので乗り越えられたのだろう。私は入院している間(大体1回2カ月~3カ月)いつも食べ物のことを考えていた。フードロスが問題になっている昨今もうあんなに腹を減らすことはないかもしれない。

④血便

IgA血管炎(アレルギー性紫斑病)から腎炎になった私は、病状が悪くなる時は大体紫斑がでるのが先であった。
その後に尿が真っ赤になるくらいの血尿になる。ここまでくるとほぼ病院のベッドの上である。
そしてものすごい腹痛が襲ってくる。腸内も血管炎になっているからである。この辺はベッドの上で七転八倒である。子供の記憶だから曖昧な部分はあるがとにかく痛くてたまらなかった。時間が早く過ぎないかなど考えていた。
その後襲ってくる便意にベッド上でおまるに座って出すことを試みるのだが、1時間以上座っても出るものは真っ赤な血の何かだった。
これが子供の時(5~6歳)に感じた「生きることは辛い」「楽になりたい」という生々しい記憶である。

⑤爪

入院中に手の爪が半分剥がれていた。最初がどの指の爪だったかは覚えていないが、乳歯が取れるかのように剥げた。この時の私(やっぱり5~6歳)は爪も歯のようにとれるものなのかと考えたので不思議に思わなかったのである。その後も別の指の爪が剥げた。剥げかかったものは自分で力を入れたら血は出たが簡単に剥けた。結局10本の指の爪全部が剥げた。それをベッドの脇に並べて置いた。
看護師さんを驚かせたのは言うまでもないが、結局なぜ剥げたのかわからずじまいである。
※大人になって手足口病になり同じように爪が全部剥がれることがあったが、当時手足口病のような感染症に罹っていたら隔離措置がとられていたのでは?と思うのでやはり原因不明。

⑥白血病の子

ブログ内にも書かれているがこども病院では同じ病室に白血病の子が多くいた。逆に腎炎はネフローゼの子がたまにいたくらいだったか。というわけで白血病の子と話したり遊ぶことが多かった。しかし気難しい子供が多くて遊びを楽しむという雰囲気ではなく、やることがないから仕方なくお前と喋ってやるとか本を貸してやるという空気があった。
ある部屋の前を通るといつも絶叫のようなものが聞こえてきた。これはあの子たちが骨髄に注射をされている声で「背中に注射をされるんだ」と白血病の子が話してくれたのを思い出した。きっと鎮痛剤や全身麻酔はされるのだろうけど、それでも無意識に叫ぶのだろうか。私は今でもあの声が耳について離れない。

⑦リカちゃん人形

親戚のおばさんがお見舞いに来た時、リカちゃん人形をプレゼントしてくれた。ありがとうと感謝の意を述べたその晩、私は消灯されたベッドの上でリカちゃんを触っていた。そして何を思ったか髪を切り始めた。最初はほんの数センチ、それが次第に肩までのおかっぱに。そして最終的に丸坊主にしてしまった。私はこれでよかったという思いと悪いことをしたかもしれないという思いの狭間にいた。次の日、丸坊主のリカちゃん人形は母親に持っていかれてしまいその後見ていない。

⑧ぼんご泣いたりするのはなんか違うと思ってた

入院中に泣いた記憶があるのは数えるほどである。母親と別れる時や注射をされる時、腹痛が酷くて眠れなくても「苦しい」とは言ったが泣くことはなかった。それは同部屋の子供ほとんどがそうであった。
たまに泣いている子供がいるがそれは新入りか乳児である。乳児は仕方がないが、新入りもそのうち慣れて泣かなくなっていく。感情を無くした世界というのはああいう世界なのだろうか。ある日突然いなくなりもう戻ってくることがない子のことを思っても涙は一滴も流れなかった。

時代別ではなく思いついたまま書いてしまった。ただこれが約30~40年前のある小児病棟の現実であり、私に起こったことの真実なのである。

ぼんごぶろぐではありのままをできるだけ誰の主観も入れずに事実だけを書いてもらっている。
あみやたわしの間違いや看護学生さんとの交流など、温かい部分を多くしてもらっているが、病院に長くいたという事実は変えようがなく私の今の人格形成に大きくかかわっているなと感じている。

こんなエピソードが必要かと言われると答えに窮してしまうが、「明るく前向きに」だけではやっていられないこともあるということを理解していただきたい。
そしてもし幼少期に同じような体験をした方がどのように今を過ごしているのかを知りたいと思っているし、このブログが何かのきっかけでそのような方の目に留まることを私は望んでいる。
またあまりに長く病院にいるとそのことが深くその後の精神に関わってくるのは私自身の経験を通して明らかである。是非とも長期入院や長期治療を行っている子供たちのメンタルケアも大事にしてほしいと思う。

体のケアで親も医療従事者も大変だろうが、感情を失ってしまった子供からのSOSは見逃さずに少なくとも辛い時は泣いてもいいんだよ、欲しいものがあったらわがまま言ってもいいんだよ、という声をかけてあげてもらいたい。

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