いろいろあった東京オリンピックが本当にもう始まる。
いろいろありすぎて熱狂的に盛り上がる気分は全くないけれど・・・。
この大会のせいで感染が広がった、なんてことが起きたら日本人として悲しい。
体操
今大会に熱狂できないのは完全にコロナのせいであって、ぼんごさんも僕も、スポーツは大好きだ。
とくに体操が好きで、リオオリンピックの体操男子の演技にはとても感動した。
団体の、予選での失敗の連続から、決勝のあん馬、吊り輪での伸び悩みと、続けざまに嫌な空気が流れていたところ、跳馬の白井選手の完璧な演技が空気を一転させたのが印象深い。
わずか数秒のうちに、テレビの前の私たちの空気をも変えてしまう鮮烈な演技だった。
一歩も動かない、どすっと刺さるような着地の衝撃が、地球の裏側のお茶の間までぶっ刺さったような感覚だ。
「これはいける」と、体操といえばラジオ体操くらいしかやれない素人の僕たちも、なぜか思った。
その後得意種目で点数を積み重ねて逆転してゆくドラマチックな展開にも心から感動した。
(あの時の体操のことを書き始めるとめっちゃ長くなるので悲しくもここまで。)
オリンピックのあとは映像を何度も見てまた盛り上がったり、ファンブックのようなものを買ったり、あの演技をもう一度見たくて国内の大会を見に行ったりもした。
実際に見る体操競技で驚いたのは音で、跳馬のロイター板を蹴るときの音、ゆかの飛び技の蹴りだしの音などは体育館中に響く迫力で、慣れるまでは、ほかの演技を見ていても思わず「何事!?」とそっちを向いちゃうくらい大きな音だった。
僕らは次第に、オリンピックがあるから、大きな大会があるから、あの選手がいるから、盛り上がっているから、といった理由をこえて、何か体操に惹かれるものを二人して感じ取るようになっていったらしい。
僕は、体操はかなり厳しい採点競技で、自分の演技が結果のすべてを左右するという自己完結性や、そこからくる緊張感が好き。普通に暮らしていては絶対にしない動きを(家にあん馬ないでしょ)、あのレベルまで追求しようとする気持ちはどういったものなのか、などと考えてしまう。
球技やチームスポーツのように複雑なルールがあったり、対戦競技のように相手との、ある種コミュニケーションの上に成立しているわけではなく、シンプルに自分の意のままに体を操ることの技術だけを追い求める姿に、勝手にストイックな格好良さを見出していたりする。成功も失敗も原因は自分自身にあるので、ひたすら自分と対峙し続ける人たちなのだろうなと想像する。精神面でタフじゃないと続かないよねきっと。
また、体操選手は自分自身が相手だから、一緒に演技する選手に敵意のようなものがない、ように感じる。
演技後はみんな手をタッチする。いまはコロナだからやらないかもだけど、世界中の選手が個人の演技の結果を称えあってタッチするのは清々しい。たとえ国同士が微妙な関係にあっても、ポディウムではみんな変わりない一人の人間なのだと身をもって体験する人たちなのだろう。
なかなかに孤独な競技で、それは考えてみれば自分だって同じ、どこにいて、何をして、どう過ごすかは自分自身で決めること、失敗しても成功してもそれは自分自身の因果応報であることが多く、周囲のせいにせず自分を見つめなおして、少しでも良い方向に事が進むよう、研鑽を続けるのが人生だよね、なんて思うのだ。
ぼんごさんは、肉体そのものが武器、あるいは防具になるようなスポーツが好きで、レスリングとか、ラグビーとか、ボディビルなんかも見たりしている。体操も自分の身体が武器となる競技で、とくにその人間離れした動きに感動を覚えるらしい。
ぼんごさんは運動が苦手だから、どうすれば体操選手のように身体を動かせるのかが不思議でしょうがない。(体操選手を目の当りにしたら誰だってそう思うとおもいますが。)
鉄棒から離れて空中で2回宙返りをしてその間1回ひねってまた鉄棒を握って普通に回転にもどる・・・。
あん馬の上で逆立ちして持ち手を超えつつ、開脚してヘリコプターみたいにくるくるっと回って、そのまま足を下ろして旋回する・・・。
吊り輪に手を差し込んでまるで聖帝サウザーのように十字になり、指もピンとまっすぐに伸ばす・・・。
長い長い努力の積み重ねの結果なのだと思うけど、日常生活に登場しない動きを軽々とやってのける体操選手の身体の動きを見るにつけ、何をどうしたらそうなるのかわからない。口があんぐり開いたままになってしまう。
それでも、たくさん見ていると、だんだんと技を覚えるし、演技のきれいさにも多少は感覚をおぼえるようになってきて、今のは綺麗だったとか、ちょっと揺れたねとか、この感じだと落下しそうだとか、いまのはよく耐えたとか、想像を超える世界をなんとなく想像して楽しんだりできるようになってくる。
同じ人間の身体がここまで強く、綺麗になれるのだ、ということを体感するのは、ぼんごさんにとって人間の身体の可能性を感じられる瞬間でもある。自分の身体も同じ、人間の身体は強く美しいものなのだ。
自分の中にもそれに通じる力強さがあるはずなんだと考えると、腎臓は悪いけれど、それはそれ、自分の身体がこれ以上悪くならないことを望み、研鑽して、自分が出来る範囲で意のままに身体を動かしていられることの喜びをいつまでも大切にして生きようと思う。
そんで気が向いたらたまには鉄棒を握ったりして、ぼくと一緒にただぶらぶらとぶら下がって、着地だけピタッと止めて、それで意気揚々とポーズをとったりして笑いあうのだ。
健常と障がいのあいだ
腎炎で運動を制限されていたぼんごさんにとって、スポーツを自分がやる、という状況は、自分の日常の世界とは別の世界の話だった。
幼いころから自分の普通と世間一般の普通に悩まされて、ひとつひとつ乗り越えたり妥協したりすることが多かったが、スポーツだけは全く違う世界の話のように存在していた。
だから、スポーツをやってみたいと、何かの競技をやってみたいという気持ちがちっともない。いえ、本当を言えばこの年になるまでにスポーツと対峙する瞬間は幾度もあったけど、無理だったのだ。やったことがないから全然うまくできないし、できないからやらせてもらえないしつまらないし、疲れるし、楽しいと思えることがそこには無かった。
もしぼんごさんに、腎炎はあるもののスポーツに並々ならぬ情熱があったとして、オリンピックを夢みただろうか、なんて話をした。
目指したかもしれないが、無理でしょ、腎臓がもたない。
腎臓に負担をかけずに運動をするのは無理だ。
じゃあパラリンピックを目指すか、と考える。
いや、これも無理だ。ぼんごさんの腎炎は障がいではないから。
悩ましい。
極端な例にはなってしまっているが、どっちつかずでかわいそうだ。
参加することに意義がある、とも聞くけど、参加が非常にあやうい。
ぼんごさん、今世ではスポーツには縁がない人生なのだとある種の諦念すらある。
とは言え、スポーツが苦手なだけで、身体を動かすことを唾棄しているわけでもないのだ。
スポーツは自分には「向いていない」が、できることもある。
ぼんごさんが好きなのはダンスだ。
今日もこんな曲をきいて踊る。
I’m on the right track, baby I was born this way
(私はいま傷だらけ・・・。でもこの道は正しい。なぜなら私が作った道だから!)
Lady Gaga『Born This Way』より
作曲:Lady Gaga, Jeppe Laursen
作詞:Lady Gaga, Jeppe Laursen
超訳:ぼんご/ぼく
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