ぼんご発見される

パニック障害

高校2年と3年はぼんごの人生にとってどん底の日々で、どれくらいどん底かというと辛すぎて記憶が曖昧になるくらいどん底だった。

この記事と次の記事を書くときも曖昧な記憶を手がかりに辛い事を思い出してもらっていて、それは今現在のぼんごにとっても全く嫌なことなので、あまり深くは聞くことができなかった。

しかしぼんごは断片的ながらも話してくれた。勇気のあるぼんご。

今はパニック障害とそれなりに上手く付き合えているからこそ、思い出すこともできるみたいだ。

父帰る

その日ぼんごは学校に行けず、早めに家に帰ったらしい。

昼ご飯を食べていたら玄関が開く音がして、お父さんが帰ってきた。

「ぼんご、どうしたんだ」
お父さんは落ち着いて聞く。
「調子悪いから帰ってきた」
とぼんごは答える。
「そうか」
とお父さんは頷く。

お父さんはぼんごがご飯を食べていることに驚いた様子だった。
学校に行っていないことよりご飯を食べていることが意外だったみたいだ。

ぼんごはこの頃、謎の体調不良の原因は胃腸にあると考えており、食事を摂ることを避ける傾向にあった。とくに朝食はそうで、学校に行く前にお腹に何かが溜まると謎の体調不良を誘発しそうで怖さを覚えていたのだ。

学校に行かなければ食欲はある。だから学校をパスした時は遅めの朝ごはんを食べていたりしたのだ。

お父さんが驚いたのはそんな理由だ。
いつも朝ごはんに参加しないぼんごが、ひとりで朝ごはんを食べている。

「ご飯、食べられるのか」
とお父さんは優しく聞いた。
「食べられるよ」
と、ぼんごは食べてみせた。
「そうか」
とお父さんは頷く。

お父さんはそれ以上何も言わなかった。

自由

ぼんごが学校を休んでいる、ということは当たり前だが学校からも家に連絡が行っていた。

が、おそらくお父さんの考えで、そのことについてお家ではぼんごにとやかく言わない、という方針がとられていたようだった。

幸いなことに腎炎の寛解は継続していたから、高校生になったぼんごには、自分自身の力で自分の生きる道を見つけてほしいという願いがそこに込められていたみたいだ。多少つらい瞬間があったとしても、本人からヘルプの声が出るまでは干渉を控えるべきだ、というのがお父さんの接し方の根底にあって、そのことはぼんごの気持ちの根底ともつながる大切な考え方でもあった。

お父さんは、お父さんの意見をぼんごに投げかけることがほとんどなかった。
いつもぼんご自身が何がしたいかを尊重して受け入れてくれる人だった。

だから、ぼんごが学校を休んでいても言葉少なだったし、普段朝食を一緒に摂らないぼんごがじつはひとりではもしゃもしゃとご飯を食べられている様子を見ても、どっしりとそれを受けとめていたようだった。

お父さんはぼんごに、特に何も言わなかった。
そのことがぼんごにとっては、優しさとして伝わったようだった。

たぶん、お父さんとお母さんは夜な夜なぼんごのことを心配して話し合っていたのだろう。
それで、ぼんごにどう接するべきなのかを悩んだすえ、お父さんの方針によって、ある程度ぼんごに自由にさせておく、という考え方になっていたのだ。

しかし、学校を休みまくって成績も下がりまくって進級の危機も見えてきている、みたいなことを学校から伝えられてお母さんはいてもたってもいられなくなったはずだ。

お母さんもそんな気持ちをお父さんにぶつけて、結論の出ない話し合いを何度も繰り返していたはずだ。
お母さんとしてはすぐにでもぼんごに干渉して、ぼんごのためにぼんごを矯正してやりたいと思っていたのだ。お母さんのぼんごを心配する気持ちはぼんごがぼんご自身を心配する気持ちよりも強くて、ぼんごがどうにかなっている状況にお母さんはもう耐えられなくなってしまっていたらしい。そんな様子を見ていて、お父さんは、ぼんごよりもお母さんが先にまいってしまうことを心配したのかもしれない。

ということで、ある晩ぼんごは呼び出された。
ぼんごは見つかって、お白州にちょんこりと正座する時代劇の善良な農民みたいに、縮こまった。

つづく。

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