「物語」と「ナラティブ・アプローチ」について

最近のぼんごさん

「物語」について、また最近知った「ナラティブ・アプローチ」について思うことを。

物語の役割

物語とは身の回りの混沌に秩序を与える考え方が形になったものだ、と、若い頃に習ったことがある。

このときの混沌というのは、身の回り何気ない生活様式の安定を妨げる要素のことで、人間に簡単には理解できない現象のことをぼんやりと示している。

で、その身の回りの混沌に対し、ある考え方(秩序)を紐づけることで、混沌を理解し、生活に安定をもたらそうとした人間の能力と努力の賜物が、物語の中に息づいていたりする。

たとえば、昔話とか伝説とか世界の各地で語られる、いつから存在するのかわからないくらい古い言い伝えなんかでは、こんな感じで物語が収斂されていったりするんだそうな。

・山のある場所で事故が度々起こる(混沌)
・なぜなら、山の神の土地に踏み込んだことで神が怒って罰を与えるからだ(秩序)
・だから、山の神の土地に入ってはならない(安定)

面白いことに、この手の話は世界中のいたるところにあって、しかも登場する概念も似通ったりしており、人間は地域や世代を超えても同じイメージを共有したりすることもあって、不思議だったりもする。

上記のような「昔々あるところに」で始まったりする原始的な伝説はやがて自然科学の進歩によって事故の因果関係が科学的に解明されて、現代では物語のために存在する物語、のようになってしまったりもするが・・・物語と言葉で混沌を秩序立てて安定を得ようとする人間の知恵は、またその行為が持つ力は、この2023年の現代でも変わっていない。

感動の物語

他方、感動の物語、なんて映画とかドラマとかの謳い文句で聞くが、その言葉からイメージされる物語は千差万別なはず。

恋愛の物語、人情の物語、実話を基にしたドラマ、成功の話、空想の物語、架空の生活を描くものもあれば、主人公は動物だったり、遠い国の話もあれば過去の話もあり、はたまた未来を舞台にした話もあったりで、様々な物語が世界中に溢れかえっている。

これらの果てしない数の物語の中に必ず、僕や、あなたが共感を覚える物語もあるはずだ。

そういった物語に触れたときには、自分の中のもやもやがさっと晴れたような気がしたり、涙が出たり、勇気が出たり、悲しみを共有して慰められた気になったり、嬉しくなったりするものだ。

物語の中の混沌と秩序と安定の人間模様を通じて、現実の自分の生活を安定させる考え方を得られることも少なくない。

その物語がたとえフィクションであったとしても、そこに息づく人間の生き方は現実の人間の意識に影響するほど力を持っていたりする。

たとえば僕は「進撃の巨人」でユミルが

「お前…胸張って生きろよ」

(出典:「進撃の巨人」 原作者:諫山創・株式会社講談社)

と言って同級生に自分の生き方を示すシーンがとても好きで、迷っている時や、難事に挑戦する時なんかにたくさんの勇気をもらえたりする。

そんな感じで、先人たちが代々思い巡らせてきた混沌に秩序を与える物語は、今も昔も人の心を動かす力を持つものなのだ。

ナラティブ・アプローチ

最近「ナラティブ・アプローチ」という考え方を学んだ。

これはカウンセリングとか医療や福祉の場、ビジネスの場なんかでも使われる考え方で、何か困難が起きている場合なんかに、その困難を包括する物語を作ることで、問題の原因を探ったり、客観視点を見出したりして、困難を解決していこうとする、問題解決のアプローチの一つである。

「ナラティブ」は英語のnarrativeで、ずばり和訳は「物語」なのだが、物語よりも「語り」のニュアンスも混じる言葉だ。

「アプローチ」はざっくり「取り組み」みたいな感じだ。

僕なりに混ぜて訳せば「語りによる問題解決への取り組み」といった感じとなる。

ナラティブ・アプローチにおける「問題」は自然現象とかフィクションの物語の課題とかではなくて、それを抱える人自身の現実の問題であって、たとえば難病を持つ方の生き方、といった問題に対して、ナラティブ・アプローチの考え方を用いることもできる。

例えば、難病の方に自分自身の半生を語ってもらい、聞き手はそれを全面的に受け入れ、適度に物語化して理解し、聞き手の理解を再確認したり、聞き手自身の感想を伝えたりもしながら、混沌に秩序を与えてゆき、考え方を整理して、難病の方の気持ちの安定を探っていったりする手法となって用いられたりする。

この手法では、当事者(難病の方)が、自身の難病(混沌)を自ら語ることが大切で、聞き手はあくまでも聞き手であり、聞き手の方からアドバイスをするとか、教えてあげるとか、治療法を示すとか、そういった解決を積極的に提案することは控え目に行われるべきで、当事者自身が自分自身の混沌にどう秩序を見出したいか、を一緒になって物語の聞き手として探ってゆくアプローチがなされる。

このときの物語の主人公はほかでもない当事者その人で、その人が自分の人生をどう生きて来たか、そしてどう生きていたいかを整理することが一番の目的となる。

誰にも話せなかったことを話すことができて楽になった、ということは、難病にかぎらずちょいちょい耳にすることがある。この感じだ。

物語の形で自分の中の混沌を整理して秩序立てることで、それが例え具体的な策にならずとも安定を得ることができたら、ナラティブ・アプローチが役に立ったと言える。よく話を聞いてくれたあの先生がぼんごに対して実践してくれたのもこのナラティブ・アプローチの手法だったのだ。

語りはじめは断片的なことかもしれない。抽象的なことかもしれない。時間も順序も色々だと思う。

その内容も、優等生的な展開でなくて全く構わない。難病は解決策が安定しないのだ。次から次へと混沌がやってくる、辛く大変な瞬間をたくさん経験する物語にどうしてもなるだろう。でも、肩肘張らない偽らない素の感情が出たらそれが一番だ。

また、語ることそのものが難しいことも多々あるだろう。語りたくないことはそれでいいし、いずれ、それが語られる回がやってくれば、それでいい。

聞き手は、そういうひとつひとつのエピソードを大きな物語の中の1話として聞いてゆき、根気強く、全体像を結ぶように各話を系統だてて聞いてゆくのがよい。

また、それが許されるならば、同じ境遇にある別の方にこの物語を共有し、理解の輪郭を広げたり、ほかの方々、ほかの難病に苦しむ方々の物語の作成の役に立てたりすることができたらば、社会的な意味も強まり、難病に対する社会の理解の促進につながるはずだ。

願わくば、ぼんごの物語が彼女の混沌を秩序立てることにつながっていて、安定をもたらし、そのことがほかの誰かの物語の発見の役に立つのであれば、僕はうれしい。

このぼんごぶろぐは、長い長いナラティブ・アプローチを実践し続けるブログでありたい。

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