あれは小学校の頃のこと。
腎炎で入退院を繰り返していた幼少期のこと。
思い出してみればちょっと悲しかったなという出来事があった。
花いちもんめ
中休み、ぼんごはクラスの友達と校庭で遊んでいた。
何人かで、2組に分かれて並び、手を繋いで、花いちもんめで遊んでいた。
子どもの列が行ったり来たり、元気よく歌っていた。
「あの子がほしい」
「あのこじゃわからん」
「この子がほしい」
「この子じゃ分からん」
「相談しましょ」
「そうしましょ」
ひそひそ。
誰ちゃんにしよう。
うんうん、それがいい。そうしよう!
「きーめた」
くすくす笑ったりしながら、「Aちゃんが欲しい」「Bちゃんが欲しい」と揺れる列だった。
前に行ったり後ろに行ったり集まったりしながら、ぼんごさんも子どもの中にいた。
じゃんけんをして、子どもがあっちの列に行ったり、こっちの列に来たり、人が入れ替わって人数も変わって、そのたびに何か新しい連帯が生まれたようで、わけもなく楽しかった。
つないだ手を振り振りしながら声を出して歌って、その間はぼんごさんも一生懸命に笑って遊んだ。
やがて中休みの終わりの予鈴が鳴った。
みんな一斉に列をくずし、わーわーと校舎へ走り始めた。
楽しい時間は突然終わる。
当然のように自分を置いてゆく子どもたちの背中を追いかけて、ぼんごは寂しさを感じていた。
「ぼんごちゃんがほしい」の回が無かった。
校庭からあっという間にいなくなってゆく子ども。取り残される寂しさ。
自分が学校にあんまりいないから、みんなは別に自分のことを欲しいと思わないのかなと考えてしまったらしい。
タッチ
あれは小学校の1年生のころのこと。
その日は体育館で全校集会があるという日だった。
体育館のすぐそばにはお手洗いがあって、体育館で集会があるときは、みなそこのお手洗いに寄っていくのが習慣のような感じになっていた。
そのお手洗いでは、上履きをサンダル的なものに履き替えることになっており、ぼんごさんもその雑踏に後ろのほうから消極的に加わった。
帰ってきた子供はサンダルを自分の上履きに履き替える、と、すぐに、待っていた別の子どもがサンダルを履いて進んでゆく。サンダルが余っている時間がなかった。
ぼんごはその様子を後ろのほうから眺めていた。
どうも、サンダルを履いてきた子は上履きで待つ子にハイタッチみたいな感じでタッチしてサンダルの権利を交代しているようだった。
パスを待つバスケとかの球技みたいに、また、そのサンダル売ってくれいと主張する市場の仲買人みたいに、子どもたちはヘイヘイとかこっちこっちとか言いながら、手をあげてタッチをしてサンダルを受け渡していった。
ぼんごさんもその仕組みに気づいて手をあげた。
こっちこっち!
同じクラスの子どもがどんどんお互いにサンダルを受け渡していって、知っている子がだんだん少なくなって、そのうち別のクラスの子どもたちが雑踏に加わってきて、ぼんごは焦った。
自分の顔を認識していてタッチしてくれる友達がいなくなってしまう。
このままではおしっこが出せないかもしれない。
ぼんごは手を上げ続けた。
しかし結局、タッチしてくれる子はいなかったらしい。
知り合いがいないとタッチしてくれる気配がないことを悟って、ぼんごは全員がいなくなるまで待った。
ああもう遅刻しちゃう、とか言いながらお手洗いをあきらめる子もいたりして、次第に人が減った。
いずれ待つ子どもよりサンダルのほうが多くなり、あまったサンダルをはいて、ぼんごはお医者さんの言いつけ通り、トイレを我慢することなくおしっこをした。
誰もいないトイレの、静かで寂しいこと。
正と負
学校生活でちょいちょい起こるちょっと寂しい出来事について、ぼんごは、学校にいる時間が短くて人間関係をうまく構築できなかったから、そういう瞬間に出くわすことも多かったのだと思う、と言っている。断続的に入退院をしていると、子ども同士の付き合い方の暗黙の了解のようなものがわからないのよと。
子どもは素直だから、他人を思いやる前に自分が優先になる。それはあたりまえのこと。
そのことにまったく罪はないが、この手の暗黙の了解を知らずにそこに混じることになる子どもにとっては、子どもの素直さはときに残酷に、あなたは異質よという現実を突き付けたりもしてしまう。
良いとか悪いとかで整理できることではないが、どんな出来事にも正もあれば負もあり、それを感じるのはその人次第であって、自分の思うことと正反対のようなことを同時に思うひとも確実に、いるのだ。
しかしぼんごは当時はそんなことを考える頭もなくて、ただ悲しい出来事としてそういうことを体験していて、悲しさのあまり記憶のどこかに追いやられている出来事も結構あるようです。
おじさんは言いたい。
元気な子は、もし、自分の友達が寂しそうにしていたら、ちょっと声をかけてあげてほしい。それだけでいい。
自分は病気だから、と思い悩んでしまう子どもは、普通の子が自分に向ける行動を気にすることはまったくなく、あなたたちには私の気持ちなんてわかりっこないわ、とふんぞり返るくらいの強い気持ちで、毎日を過ごしてほしい。
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