中学校生活ももう終わりが見え始めていたころ。
昔からのお友達からしたらぼんごちゃんは何か変わってしまったみたい、と思われたのでは。
でも、その後のぼんごと出会った僕からしたら、この頃からぼんごは急速に今のぼんご成分を強めて行ったようだった。
休み時間に辞書をひく
この頃のぼんごは、ずっと昔から溜め込んできた心の中の寂しさ、悲しさ、つらさ、嫌悪感、焦燥感、うまくいかない自分の身体への劣等感など、そういったネガティブな心情がもはや言動や表情で隠せないようになってきてしまっていた。ついでに、破けたジーパンから覗く膝小僧も隠す気がなかった。
そんな折、ぼんごの心の支えの一つとなっていたバンド、NIRVANAがIn Uteroというアルバムをリリースした。
Nevermindの次のアルバムで、前作の重いながらもポップで聞きやすいバランスの良さを犠牲に、今作はバンド本来の持ち味をコテコテに入れ込んだような仕上がりで、ざっくりひとことで言えば「気持ち悪い」音を鳴らしていた。
こういった綺麗とは言えない音も好むように変化していったぼんごであったが、どんな世界でも類は友を呼ぶもの、同好の友達が何人かいて、今回のアルバムはこの曲がいいとか、この歌詞の意味は何だとか、それはそれで小さな世界を形成して楽しく、休み時間なんかにはあーだこーだと、このアルバムのことで話は持ちきりだった。ぼんごの変化を受け入れてくれた友達は、一緒になって壁を殴ってくれる本当に大切な友達だ。
その日も休み時間に友達とIn Uteroの話をしていたらしい。
「インユーテロってどういう意味」
「辞書で調べてみる」
ぱらぱらっとめくって、uteroを突き止めたぼんごたち。
「子宮、の中ってこと?」
「なんだろ、意味わかんないね」
少しでも音のこと、バンドのことを理解したくて近づきたくて、歌詞の意味や言葉の意味を自分たちなりに解釈するのも楽しい時間だった。それだけ憧れの音であり、迷いを吹き飛ばしてくれるような強さのある音だった。
ぼんごたちは自分はこの曲が好きだとか、この音が格好いいとか、前のアルバムと比べてこうだとか、今度日本に来たらライブに行ってみたいとか、ほかのバンドも聞いてみたいとか、耳から広がる現実の世界の広さを敏感に感じ取って、たったひとときでも、ちっぽけな自分が強くなったような気になって、それでまた壁を殴る勇気を確認し合うことができた。
ちょっかいを出される
どうも、そんな会話を後ろのほうの席の男子たちが聞いていたようだった。
それで、女子がNIRVANAの話をしていやがるぜ、格好つけてる、みたいなことを言った。
気取った感じのある男子たちで、NIRVANAは男の音楽だと言わんばかり、女子どもを蔑むような言い方に聞こえたらしい。
文句あんのか、あるなら言ってみろ、女子は大人しくしてろ、お前らにNIRVANAがわかるわけない、みたいな感じか。
それらの、整髪料の臭いのする子供じみた悪意をはっきりと意識したぼんご一団。
しかし、これを完全に無視した。
ぼんごさんと音楽(Nirvana)Never mind!(ほっとけ!)
あっしらの世界に勝手に入ってくるんじゃねえ!
ユーテロの意味わかって言ってんのか、これは女の象徴だぜ!?
といった言葉は内に秘めて、カート・コバーンがいかに格好いいかという話を、これ見よがしに続けた。
(うーむ、どっちもどっち笑。)
この頃から、ぼんごは人との距離感を自分なりにコントロールするようになったらしい。
クラスでいじめられている子がいても、見て見ぬふりをしたり、自分にとって大切と思えないことには積極的に参加しなくなったり(以前は消極的に参加しなかった)、また、誰かが悪意を持って自分に接していることも敏感に感じ取ったり、でもそれはそれで深く気にすることもないと、自分の気持ちを大切にするようになった。空気を読んで、自分の価値観を守ることに躊躇しなくなったというか。
良い子を演じるようなことがまったくなくなって、気持ちの面でのストレスから少し解放されることができたようだ。自分の思うように生きられるのがどんなに楽か、ということを実感する日々だった。
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