今回の絵はぼんご画伯の不調のため本文と関連無しです。
寛解を迎えたぼんごは、自分はもはや腎炎ではなく、普通の生活を普通に過ごしてゆかないとならないと考えるようになっていた。普通の生活をしてよいと言われて、多少は頑張った。
でも、普通の生活の中で、自分の思い描くように満足にできることは無かった。
ノーマルライフ
普通でいようとすればするほど、自分と普通の間の埋められない差を知ることのほうが多かった。
自分としてはやれているつもりであっても、長い腎炎生活のなかで制限の対象になってきたあらゆることが身の回りに堅牢な壁となって分厚く存在しており、ぼんごの自由を阻んだ。
これまでは自分の身体の不調に直結する選択は避けてきたのだ。
急にそれらを人並みに出来るようになれと言われても、できるわけがない。
さあ頑張ってやってみよう、と言葉で言うのは簡単だが、どうすればいいのかわからない。
さんざん曲がりくねったレールに乗ってきて遅れているのに、自分を置いて前を走るみんなの列車と同じ場所に走って追い付いてゆくことはただただ困難に思えた。自分が頑張ってもがいている間にも、みんなはどんどん前に進んでしまう。
腎炎が進行していた時は壁はぼんごを守ったが、寛解を迎えた今となっては、それらの壁はぼんごの自由を阻むものになっていて、この壁の厚いことが自分の人生の大きな障害になっているとすら感じるようになっていた。
自由というのは身体的な自由のことではなかった。
腎炎を抱えて生きた短いながらも山の多い人生の時間の中で、それなりの時間を割いて培ってきた自分の人生との向き合い方である「壁」が、その当時のぼんごにとって簡単には取り外せないものになってしまっており、それを壊してゆく作業は、これまでの自分の人生のほとんどを否定するようなもので、簡単なことではなく、いや簡単とかいう状況ではなくて、これまでまったく想像もしてこなかったことに急に対処しないとならないような割と差し迫った精神状態になってしまった。
それでぼんごは混乱した。
腎臓を守ることが生きることとほぼ同義だったころは、壁のせいで普通と自分が違っていてもそれを特に気にすることもなかったが、普通の中に投げ出された今は、みんなと同じように過ごせていない自分を無理して客観的にとらえるようになっており、そうやって眺める自分自身の姿は惨めで仕方なく、寂しく、情けなく思う時間が増えた。
ああなんて自分は、自分の身体はこうもだめなんだろう。
腎臓のことがなければ、私は普通でいられたのにな。
腎炎はアイデンティティの一部であったけれど、普通の世界から見たときの腎炎は邪魔ものでしかなかった。
この頃から、自分の身体を、腎臓を呪う気持ちが生まれ始めた。
Negative Creep
普通の生活の中に自分の思うように出来ないことが無数に存在するのは仕方がない。
体力を使うことや運動神経が求められることや、友達付き合いのルールを知っていないと難しいことや、行ったことのない場所、したことのないこと、いろいろと惨めに思う瞬間が増えた。
こうしたとき、ぼんごはよりいっそう自分を責めた。
自分はなんてだめなんだ。自分は惨めだ。自分は腎臓が悪いから、身体が悪いからみんなと同じようには過ごせないんだ。これは、運悪く自分に降りかかった仕打ちで、周囲の人はこの事態には関係ないんだ。
すべて私が悪い、私の身体が、私の腎臓が引き起こしたことなんだ。
そんな思考を幾度となく繰り替えして、ぼんごはいつしか、自分自身についてとんでもなくネガティブな思考を取るようになっていた。
自分で自分を責めて、否定して、悔しくなって泣き、怒り、諦めたり、悩んだり、苦しい気持ちを抱えながらそれでも自分を責めて、自分の人生を大きく方向づけた腎炎を、自分の身体を呪って、自分自身の中に、自分の人生の最大の問題をはっきりと認識するようになった。
この自分を責める気持ちは異常なほど。
僕からしたら普通に出来てるじゃん、と思うようなことでも、本人がだめならだめで、まるで自分の腎臓について悩みながら暮らすのが自分の趣味ですと言わんばかりにいつも自分を責めている。
なんだってそんなに悩むのか、悩もうが悩むまいが時間は過ぎるし生々刹那主義で生きるのがいいんじゃない、と話をしてみても、悩みつつも生々刹那主義をとるという落ち着かない感じが常なのだ。
でも、そんな風に自分を責めることには意味があって、最近わかったことだけど、自分を責めることでたったひとつ守ったことがあったのだ。
それは、自分の腎炎のことは自分が一番わかっていることで、他人にそのことを口出しはさせないという、歪なプライドのようなものだった。
腎炎のことを「他人から責められる」のは絶対に許されないことなのだ。
そんなことが起きたら、ぼんごは精神的に壊れてしまう。
だから、自分で自分を責めておいて予防線を張っておき、現実の生活の中でそういう状況に出くわしても、腎炎だから仕方がないのだとすぐに自分に言い聞かせて、腎炎である自分を消極的に肯定し、ちいさな、壁の中のぼんごをずっと守り続けているのだ。防衛機制という心の働きがこれに似ている。
こんな感じで、普通に混じったぼんごはむしろ悩みを多く抱える状況となった。
腎炎も相変わらずつらいが、この頃からは、それ以上にこの精神的な悩みと付き合うことにより多くの時間を費やしてゆくことになるのだった。
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