コロナ禍と腎炎

最近のぼんごさん
本項では、腎炎の患者と家族がコロナ禍にあって日常生活で考えることを記載しています。
新型コロナウィルスの症状、予防、治療などに関する最新情報は、必ず厚生労働省や医療機関、主治医などしかるべき専門組織に確認してください。

ぼんごさんは紫斑病性腎炎だ。

紫斑病性腎炎とは、ウィルスや病原菌が体内にやってきたとき、免疫応答の途中で謎の免疫複合体(IgA)を生んでしまい、それが腎臓にまとわりついて炎症を引き起こし、腎機能が低下してしまう難病だ。紫斑を伴っていれば紫斑病性腎炎と呼ばれるが、腎臓だけ見るとIgA腎症という難病と同じだ。

紫斑病性腎炎/IgA腎症は、免疫複合体が腎臓にまとわりついちゃっているのが身体へ一番大きな影響を及ぼすところだが、そもそもIgAが生まれてしまう部分は免疫応答の問題で、免疫応答が通常でないこと、が背景に見え隠れしている。

一年以上に及ぶコロナ禍の生活で感じることをいくつか。

免疫力が心配

うん十年に及ぶぼんごさんの体験として、ぼんごさんは自分が体調を崩しやすいことを知っている。またそれは、体内に何らかの物質がやってきたときに起こりやすいということも知っている。

ある時期になると風邪をひいたり熱を出したりするとか、花粉にとても敏感だったりとか、流行りの感染症(ノロウィルスとか手足口病とか腸炎とか)をもらいやすかったりといったことが現実に起きた。

こういったことは腎臓の問題ではなく、ウィルスや病原菌といった抗原物質に対する抵抗力の問題で、例えば同じ家に住む家族が発症しないのにぼんごさんだけが感染症を発症するといったことが幾度となく起きたりした。いわゆる「免疫力」が弱いのだ。

だから、パンデミックになってしまった新型コロナウィルスをとても怖がっている。
ウィルスに許容量のようなものがあるとして、ぼんごさんは自分は普通の人が耐えられる量よりずっと少ない量で発症してしまうのではないかとか、ウィルスがもたらす症状が重症化しやすいのでは、といったことを意識して毎日を怯えながら暮らしている。

厚生労働省のページでも、免疫機能が低下している人はリスクが高いと考えられているらしい。
出典:厚生労働省ホームページの (新型コロナウィルス感染症 COVID-19 診療の手引き 第5版)、P.12とか。
こわいね。

血管炎・サイトカインストーム

自身の免疫力が心配であることに加えて、新型コロナウィルスが身体に及ぼす影響も怖い。

新型コロナウィルスにたいする免疫応答の一つとして、免疫が過剰に反応してしまうサイトカインストームという状態がある。ウィルスに対して免疫が過剰に反応し、血管内で炎症(血管炎)を起こすことがあるというのだ。

免疫が過剰に反応することがあるのは新型コロナウィルスに限ったことじゃないとは思うが、ネットで調べると、新型コロナウィルスの記事でこの話がすぐ見つかる。過剰反応しやすい原因があったりして、と考えてしまう。

これはアレルギー性紫斑病に似ていて、新型コロナウィルスに対応するための抗体が制御不能のような状態になり、血管で炎症を起こして全身に悪さをしてしまう、とてもいやな状態に聞こえる。(紫斑病も血管炎だから、ぼんごさんにとっては腎炎のはじまりとなってしまった原因と同じものをいやでも新型コロナウィルスの中に見出してしまう。)

ぼんごさん含めIgA腎症の人は何らかの原因ですでに免疫応答が普通の状態ではなくなっている。そこに、さらにこれを悪化させる可能性のあるウィルスがきたら、どうなるかわかったもんじゃない、というか確実に腎機能が悪化する予感しかしない。

詳しいことは全くわからないけど、腎臓のことを考えると用心に越したことは無いのが実情だったりするのだ。

自衛する日々

新型コロナウィルスの感染拡大の規模やスピードはとんでもない状態であるにせよ、心配の対象が自分自身の身体のことでもあるぼんごさん、自粛を怠らない。

不要不急の外出(とあとほんの少しの楽しみのための外出)を除いては、家から出ない日々を今も続けている。出かける用事といえば通院とか役所の手続きとか、日常の買い物とか、それくらいだ。飲み会や会食は一年半以上ずっと我慢している。好きなミュージシャンのライブにはいかない(そもそもやってなかったりもする)し、ショッピングにも行かなければ、旅行なんてもってのほか。必要な外出の時も、人出が少ない場所や時間を選んでいたりする。友達の家にもいかないし、招かないし、退屈な日々を受け入れて毎日家でを吸う日々だ。

近所に買い物に行くと、ちょっとした公園みたいな草むらみたいな開けた場所でバーベキューをしている人がいることがある。コロナ禍の前からバーベキューをする場所になっていたのだが、コロナ禍になって、最近はむしろ集まる人が増えた気がしている。

屋外だから換気は問題ないし少人数なら密にもならないから、気にならない人は全く気にならないのだろうと思う。いつも楽しそうにジュージューやっている。お酒飲んだり音楽をかけたりもして。お子さんも楽しそうにボールを投げて遊んだりしている。

マスクをした僕たちは、彼らの横を歩いて通り過ぎる。
バーベキューをする習慣がない僕たちにとって、彼らは不要不急のように映る。
ただ、やっぱりバーベキューをする習慣がないので、要、急なのかもしれないと考える。
バーベキューをしないと何かに耐えられないのかもしれないし。
マスク越しに薄く、炭の燃える臭いを感じながらすたすたと歩調が速まる。
なんだかねえ。誰かが悪いわけじゃないけど。誰も責めるつもりはないけれど、何と言ったらいいのやら。
自戒と自衛の両方の意を込めて考える。

Bongo Against The Nephritis
Bongo Against The Nephritis

こんな時は なんて言えばいいのだろう
こんな時は なんて言われたいのだろう
苦しまぎれに聞いてみたい
「Go Back, Candy house」

THEE MICHELLE GUN ELEPHANT『キャンディ・ハウス』より

作曲:ミッシェル・ガン・エレファント

詞:チバユウスケ

みたいな話をしたりして、けたけた笑ってお家に帰ったりしています。笑うと免疫力あがるって言うし。

たまご、ひよこ、にわとり

自粛が続く日々ですが、昔から自由を制限されていたぼんごさんにとって、会食だめ、密集だめ、不要不急は控えろ、のような制限はむしろ懐かしささえ感じられる状況ともいえた。

アイスだめ、ポテトだめ、ベッドから下りちゃだめ、病室から出ちゃだめ、お出かけだめ、学校だめ、運動だめ、遊びだめ、の幼少期のことを考えれば、コロナ禍の制限なんぞ自由であることと大差なかったのだ。

ぼんごさんだけじゃない、普段から自分の自由にならないことで制限がついて回る暮らしを余儀なくされる人たちは、今この時期に、普通の人たちと、自分たちの制限付きの世界を多少なりとも共有している状態なのかもしれない。

だから、今いっせいに制限をかけられている普通の人たちは少しでも、制限のある暮らしがどういうものか考えるきっかけになったりするのかしら、と考えたりする。例えば僕が。

自由を制限されるって嫌だよね。制限されてるって考えるだけで鬱っぽくなってくる。
飲み屋の風景なんか遠い世界の出来事のように感じるようになってしまっている。
いつになったらもとに戻るのだろう、何があれば普通になれるのだろう。
どうして自分が生きているこの瞬間にこんなことになっているのだろう。
自分が何か悪いことでもして、罰があたっているのだろうか。
いくらでも愚痴れる。

身近に難病や難しい状況を抱えて制限を持つ人がいるよ、というみなさん。
また制限付きの暮らしなんて想像したこともなかったみなさん。
普通にあこがれる気持ちが、すこしわかった気がしませんか。

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